20年も前に自分の勝手な都合で退社した(何せ「海外に長旅に出ますので」だ!)「元社員」という立場で、その会社の社長の葬儀に参列するというのは何だか複雑なものかもしれないと、御通夜が営まれるお寺へと向かう電車の中で考えていた。
というか、そんな迷いもあったため「あんまり早く行って葬儀の場をうろちょろ」しないほうが……ということで、お寺に着いたのは御通夜の開始時刻の15分前。ただ、そうしたところが、やっぱり既に大勢の参列者(その多くはマスコミ業界の古参の大幹部の方々だ)の列が、本堂の外までのびていた。今さらながら社長のこれまでの業界における存在感の大きさと実感しつつ、「もっと早く来ればよかった」と、さっきまでと逆の反省をする有様。
今井さん(現在は会社の専務取締役である)は門前に立ち、次々にやってくる参列者への挨拶をこなしていた。私はこの日、今井さんが自分のブログに書いた「
人生の問題に正解はない!ただ選択するだけである!!」という記事を自宅を出る前に読んで気になっていたのだが、無論、この場でそんなことを持ち出している場合ではない。
「今井さん、ご案内ありがとうございます」「岩本、ありがとう」と簡単な挨拶を、結局この日は交わしたままに終わった。なぜなら今井さんは最後まで本堂の外で、この寒い夜に参列者への挨拶と案内に徹し、御通夜後の食事の席にも顔を見せなかった。葬儀は「社葬」ではなく、社長の御遺族によるものである。そうしたことは、やはりきちんと筋を通す人なのだ。
(【後日訂正】後に今井さんより受けた御指摘によると、この葬儀は「社葬」であった。1月27日の段階で遺族からそう告げられたという。謹んで御詫びのうえ、訂正いたします)
会食の席では、在職時代に取材その他でお世話になった方々にも何人かお会いし、ご挨拶することができた。そして社長の御遺族や、今井さんの奥さん(というか、私は「ヤマナさん」とお呼びしてしまう。このお二人の馴れ初めから結婚までに至る時期にちょうど私は社員で、それはもう凄いドラマがあったのを一部目撃しているのだけど、書くと今井さんに怒られそうなので書かない)にも御挨拶しつつ「あの頃は本当にねえ」という昔話に。
というのは、
ここにも顛末を書いているけど21年前、社長の御父さんが亡くなり、私も御実家のある函館まで葬儀の手伝いに行ったことがあるのだ。その際のことを覚えていただいていたこともあって、ついお話も長くなってしまい、とうとう最後は会食場から親戚以外の方がみんな帰られたところまで居残ってしまい、またもや失礼してしまったのであった(汗)。本当に申し訳ありません。
上の写真は、その食事の席に置かれた社長――赤石憲彦氏の遺影。撮影されたのは25〜30年前の50代。ちょうど私が入社する前後の頃のようだ。私の手元には当時の写真が全然なかったので、御遺族にお許しを得たうえで撮影。その側で無邪気に料理にぱくつくお孫さんの風防が、何だかそっくりなのが微笑ましかった。
ただ、私の記憶の中にある社長は、この写真よりも30倍くらい怖かった(汗)。実際
ここにも「
例えていうなら開高健と安部譲二と落合信彦を足して3を掛けたという感じのおやじで、最初にあった時に俺は間違いなくこいつはやくざだと思った」などと書いているけど、何しろ鞄持ち(もやりましたよ、はい)しながら会社近くの赤坂一ツ木通りを歩くと、目の前の通行人がいきなり青ざめて道を空けたり、訪ねた広告主企業や出版社では対応した先方の重役の方々がめちゃめちゃ緊張した表情で出迎えていたのを、今でもよく覚えている。
「ご遺体のお顔は見てないの? まるで仏様のようよ」とヤマナさんに促がされ、改めて一人で祭壇前に置かれた棺の前まで行く。そして拝顔するに――絶句。
“これがあの「鬼の赤石」と呼ばれていた、あの社長?”
長年の闘病生活で痩せられていたこともあろうが、本当に安らかに、仏の顔をして眠っていたのだ……。
しばしその場に立ち竦み、思わず死に顔をしばらく凝視してしまってから――合掌。
明日(もう今日)は正午から告別式。もう寝なきゃ。場所は法蔵寺(東京都新宿区若葉1-1 Tel.03-3851-0069 地下鉄「四谷三丁目」駅から徒歩4分)である。

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