一昨日(27日)は朝から茅ヶ崎(神奈川県)まで取材。快晴の日曜日だったが、私の場合は目下追ってるテーマの取材が、どういうわけか(というかこの日記をよく御覧のかたはご存知の通り)、平日の夜か土日の昼間に集中する。
そんなわけで、多くの社会人のみなさんがオフタイムの時間になると怪しげにあちこちを動き出しては、平日の昼間には(鬱病のせいもあって)自宅の寝床に引きこもるという生活が最近は続いている。ただ、そんな私も20年近く前までは、毎朝8時に超満員の地下鉄に乗って東京都心の会社に通うサラリーマンだった。
今でも時おり夢の中で会社員時代の状景が出てきて、はっと目が醒めたら既に夕暮れ時だったりする。そんな時、寝床に起き上がって眠い目を擦りながら「なんかずいぶん、遠いところまで来ちゃったなあ、俺……」と、しばし茫然としながら思いを噛み締める。
で、昨日(28日)も前日の茅ヶ崎取材、及びそれから帰宅後の原稿書き(早朝4時頃までに終えて就寝)の疲れもあって午後4時前に起床。この日は6時半より「
右から考える脱原発ネットワーク」主催のデモが京橋〜銀座〜霞ヶ関〜新橋にかけて行なわれる。その取材に行かなくてはと思いながら寝床に置いたスマホでまずはメールをチェックしたところ、会社員時代の上司の今井さんから、Facebook経由で一言、短いメールが来ていた。
「社長が亡くなったよ!」
飛び起きて、今井さんのブログ(↓)を読む。
「
『社長』が急逝したので昔話をしてみよう」
(「新teru0702の日記by今井照容」2013年1月28日)
読んだ後、「会社」に電話をかけた。退社して以来20年ぶりだったが、会社の電話番号はしっかり覚えていた(まあ、当時は携帯もなくて、逐一ダイヤル通話だったからね)。
電話口に出たのは「社長」の息子さんだった。私が在職中はまだ学生で、会社にアルバイトに来ていたので顔なじみ。現在では入社して役員を務めている。葬儀は四谷三丁目のお寺で明日が通夜、明後日が告別式ということで、改めてファックスで案内をいただいた。
鞄結档Aドエージ代表取締役社長・赤石憲彦氏。1月26日に81歳にて急逝されました。
衷心よりお悔みを申し上げます。社長、本当にお世話になりました。私を育てていただき、本当にありがとうございました。
正直、今はいろいろな思いが心中で交錯して、これ以上の言葉が出てこない。数年前からガンを患い、闘病生活を続けていたとは聞いていた。が、上記の今井さんのブログや息子さんからの話からするに、手術と抗がん剤で劇的に回復を遂げていて、2月には静脈瘤の手術を控えていた。ところがその静脈瘤が破裂し、思いがけずの急逝となってしまったという。もしかしたら私より長生きされるんじゃないかとも思っていただけに、訃報には一瞬目を疑ったくらいだ。
そんな「社長」とのことについては以前にも
ここや
ここで書いているし、今井さんについても
ここや
ここで紹介させていただいた。が、それにしても上記の今井さんのブログに書かれた「社長」との日々も(在職中にも何度か聴かされたことがあるけど)何とも凄絶なので是非お読みいただきたい。もともとマスメディアの世界ってこういうふうだったんだよ――などと言ったら現在のマスメディア志望の若者たちは逃げ出してしまうかもしれないけど。
23歳の春、岩手大学を卒業してふらりと東京に出てきた私が、このあまりにもアグレッシブなお二人のもとで鍛えられながら(というか、最初の3年間ぐらいはほとんど毎日怒鳴られるために出勤してたような感じだったけど)、20代半ばの5年間を過ごさせてもらった経験は、今でも私にとっての「宝物」だ。もっとも、そこを「海外にバックパッカー旅行に行くから辞める」とか言って離脱し、後にフリーライターになってオウム真理教だ反原発だとかを採算度外視で追い始めたあげく、生活保護受給者になって来年には50歳になるという俺の人生は何だったんだろうかとも思うけど(^_^;
ともあれ明日・明後日(というかもう今日・明日だけど)は葬儀に行ってきます。ではでは。

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