あれからもう17年だなあ、と思う。1993年の10月1日も金曜日だった。
あの日の朝6時すぎ、成田着の飛行機で私は“現在の日本”に帰ってきた。その年の4月から約半年間、韓国・中国(香港・マカオ)・ベトナム・タイ・マレーシア・シンガポール・インド・パキスタン・イラン・トルコ・ギリシャ――とほぼ陸路で西へ西へと渡り歩くバックパッカー旅行をやっていて、最後はアテネ発シンガポール経由の飛行機で一気に日本に帰ってきたのだ。当時、29歳。
それが私にとっての生まれて初めての海外旅行で、にも拘らず一度に半年がかりで12か国を旅するということをやってしまったのである。そんな経験の後ではたして無事に“元いた”日本社会に復帰できるのか、自分でもよくわからなかった(当然、旅立つ前にそれまで勤めていた会社を辞めていたので、無職だった)。おまけに旅している間に日本では「55年体制崩壊」による政権交代劇があり、自民党が野党になったという。何だか留守中にずいぶん変わった日本へと帰ることになるのだな……と、帰路の飛行機の中でぼんやり思った。
時差ぼけの頭を抱えたまま成田に着いたら、雨だった。暑いアテネから薄手のブルゾンとTシャツ・サンダルという服装のままやってきたものだから、えらく寒かった。
長旅で既に懐銭はほぼ尽きかけていたが、ターミナルに降り立った途端、すぐに新たなチケットを買ってアメリカあたりまで飛んで行きたい衝動に駆られた。それを抑えつつ、最後の奮発とばかりに新宿まで成田エクスプレスに乗ることにした(それまで半年間はもっぱら鈍行や長距離バスばかりを乗り継ぐという貧乏旅行だった)。車内の文字放送ニュースは連立与党間での政策協議や米不足の話題を伝えていた……「連立与党」?「米不足」?
列車が成田を出発してほどなく、沿線に日本語で書かれた看板を見て「あ、日本語だ!」と驚く。しかし当たり前だ。ここは日本だ。
1時間ちょっとで新宿に到着。西口の高層ビルや駅のホームの様子も、特に変わった様子はないようだった。ところがだ。特に変わった様子はないはずなのに「こういう街だっけ?」という猛烈な違和感に襲われる。いや、そんなはずはない。ここは確かに半年前まで俺が毎日、通勤の途中で歩いていた街なのだ……と思い込ませようとするが、頭も身体もついていかない。立ち尽くす路上で、脇をすりぬけていく「日本人」は、みなどこか儚げで、虚ろな表情だ。
中野の自宅まで通いなれた(はずの)地下鉄に乗る。「帰ってきたー!」という実感は微塵もない。むしろ「この国の人たちってこんなに大人しいのか!?」という、“初めて訪ねた国”への驚きに呆然とした。みな何かを耐え忍ぶように身を硬くしながら吊革につかまっている……。
自宅のアパートに着いた。鍵を空け、ドアから一歩踏み入れたものの、ここでもやはり「こういう家だっけ……?」と思うしかない。まるで記憶喪失からよみがえってきたみたいだなとぼやきながら、落としていた電源を上げる。と、部屋の一角に置いていたミニコンポの時刻が点灯した。
「15時3x分」
それは半年前に私がこの部屋を出て行った時刻だった。この瞬間、それまでの半年間の旅路が、何か遠い夢の中での出来事のように遠ざかっていった――。
――とまあ、そんな10月1日を17年前に体験したわけである。
村上春樹『1Q84』の中で、主人公の青豆が首都高速の階段を下りた途端、それまでとは別の世界に踏み込んでしまったという下りがあったけど、個人的に私もあの1993年の10月1日、半年間の旅を経て、自分が「別の日本」へと帰ってきてしまったのではないかという気分に浸ったのであった。
あれからもう17年も経ったけど、確かに今でも、あの日を境に自分が住む「日本」という社会への見方が、どこか変わったような気はしている。思えばあれから日本も阪神大震災、サリン事件、壮絶な格差社会の到来……etc.いろいろあった。でも、仮にああいう長旅をしなかったら、もしかしたら俺は今とはまったく違う日本に棲んでいたんじゃなかろうか? などと、いい年こいて子供みたいな連想に浸ってしまう、そんな10月1日、金曜日。

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