また帰省。一昨日は昨日(20日)は予定通り21時半には静岡・藤枝の実家へ到着。ただし予定通りでないこともあった。
藤枝駅に着き、市内バスに乗ろうとしていたところに妹(実家で母と同居)から携帯に着信。「仕事帰りにピックアップしてくよ」というのでありがたく駅前から車で同乗して実家にたどり着くなり、ほとんど引っ越し仕事のようなタンスや机の移動作業を手伝わされた(^ ^; 少し前に「ダニが出た」とかでカーペットの取り換えをした際、空き部屋に移していた家具や荷物を戻したり再配置したりする作業に協力したのだ。同居の母は既に年齢的&体力的に重い荷物の持ち運びはできず、普段は何も役に立っていない不詳の長男をちょうどよいとばかりに活用できたというところだろうか。
その過程で、たまに帰省する私などが使う空き部屋に、この木製の机が持ち込まれる。48年前の元旦に37歳で病没した親父の遺品だ。
1970年代の初め、ここで物心がついたという私が両親と弟、そして生まれたばかりの双子の妹たち(うち1人が上記の妹)と一緒に暮らしていた名古屋市郊外の社宅に、当時30代半ばだった親父が購入のうえ持ち込んだのが、この机だった。確かアパートの4階にある部屋(当時はエレベーターもエスカレーターもなかった)の玄関前まで運び込んだのに「ドアが狭くて」室内に搬入できず、後日にロープでベランダ越しに下から運び入れたと聞いた。
しかし、そうまでして買い込んだ本人はたぶんその後、世を去るまでに2〜3年もこの机を使わなかったんじゃなかろうか。私もそういう場面を目撃した覚えはなく、私より年下の弟や妹たちもそこはたぶん同じだろう。
無論、確かに当時は「でっかい机だなあ」と、胸元まで迫る机面に乗り出しながら思った記憶があるが、今こうして眺める現物は、脇で直立した私の太ももの位置辺りにある。
以前に母に聞いいたところでは「あんまり大きいんで、後から家具屋さんに頼んで端っこを切ってもらっただよ」という話だった。
親父の死後、岩本家は今日までの約半世紀間に4回の引っ越しを行ったが、主を失ったこの机を母は今日まで守り続けた。
この机がやってきた当時、30代半ばだった父はおそらく人生の盛りを迎えていたのだと思う。日本はまだ高度成長期で、年々給料も上がり、ようやく家にも電話が入り(電電公社員が暮らす社宅なのに当時まだ大半の家には電話がなかったのだ)、テレビもモノクロからカラーに変わり(確かあさま山荘事件の実況生中継はモノクロテレビで見たよ)、中古車だけどようやくマイカーを手に入れて、休日には一家6人でドライブに行くよ、そしてもう少し待てば栄転が待ってるよ……という時期だった。
そんなタイミングで親父はあっけなく、妻(母)と子供たち(長男の私を含めた4人)を残して病没した。母はその時点で専業主婦だったから、主を失った岩本家はその翌月には、会社関係者以外には身寄りのなかった名古屋市の社宅を出て、両親の実家や親戚の大半が住む静岡に転居することになった。当時小学3年生で、もうじき10歳になろうとしていた私はそこで故郷と幼なじみも失った。
だから私には今でも、自分の子ども時代(0〜19歳)がちょうど真ん中でブツッと強引に切断されたような思いがある。それを言ってもたちまち「甘えたことを言うな」「母ちゃんを心配させるんじゃない!」とか、何も事情を知らない周囲の大人たちに説教されるんだろうなと予め察して言うのを諦めた苦い記憶と共に(まあ、それが社会人になってからの処世術だか原動力だかにつながっていったんじゃないかという気もするが)。
そんな机が、今こうして週末帰省で帰って来た私の寝床となる部屋に運び込まれ、実を言うと今もその机の上に、東京から持ってきたノートPCを置いてこのテキストを書いている。昨夜は引っ越し作業の後、ふと開けた脇の引き出しを開けた途端、約50年前、親父の臨終の場面(私は何も知らなかったので立ち会えなかったし、詳しいことは今なお何も聞かされていない)を母が手書きの日記で記録した大学ノートが出てきてしまい、深夜にこの机で読みながら思わず頭を抱えた。
「あれ、まだ起きてるの?」
夜、これを書いている最中に、不意に母が部屋まで顔を出した。80歳を超えた母はもはや達観の境地にあるかのような日々を過ごしている。ていうか。もはや物忘れが激しくなって、少し前に言ったことも忘れるような状況だから私がこうして割と頻繁に帰省するようになったわけで、そこで今さらくだくだ説明するまでもないんだけどね。
明日にはこの机から離れ、東京に戻る。

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