「『夜明け前のうた』が聞こえない夜に(12月19日上映会&フォーラム報告)」
メディアの話
で、遅まきながら19日に行われたドキュメンタリー映画『
夜明け前のうた』上映会&トークフォーラムについての報告なのだが、すでに
OurPlanet-TVが集会の映像記録を全編ノーカットで公開しているほか、当日参加された方々によるレポート記事も既にいくつかウェブに上がっている。また、トークではこの映画が提起している精神障害者(そしてその家族や周囲の社会)が直面する問題を始め、文化庁による上映延期(中止)がはらむ問題まで論点が多岐にわたっており、それぞれについて言及し出すとまた(ただでさえ「長い」とよく指摘される私の論考がまたまた長大なものになってしまいそうだ。
なので、ここではポイントを「遺族からの抗議→上映中止」の件に絞って書いてみたいと思う(最後に1点、この件についての私からの報告もあるので、何とか最後までお付き合いいただければと)。
トークの終盤に綿井健陽さんが、今回の件については過去のドキュメンタリー上映中止問題に比べて、映画関係者やジャーナリストたちの反応が「今一つ歯切れが悪い」と語っていた。その背景として綿井さんは、例えば『ザ・コーブ』や『靖国』などの場合は上映中止に追い込まれた要因が主に右派からの攻撃だったのとは異なり、今回は映画に登場する精神病患者(50年以上前に「私宅監置」による隔離状態に置かれていた「金太郎さん」という方。既に故人)の遺族からの抗議がきっかけであることを指摘。そのためか「うーん、遺族からか……」「精神病患者だからなあ」「それにまだその映画を見てないし……」といった調子で二の足を踏む人が目立つと語っていた。
また、綿井さんはもう一つ、今月10日の原監督ほかによる記者会見(文化庁への抗議)を伝えた「Yahoo!ニュース」記事のコメント欄に「遺族が抗議してるなら中止になって当然」「作中に出てくる本人もしくは親族に同意を求め、作品をチェックしてもらうのは最低限の仕事だ」といった声が目立っていることにも言及。おそらくはまだ映画も見ていないだろうに、こうした「遺族」の気持ちを持ち出して批判しにかかる向きが目立つことへの懸念も表明していた。
で、この「Yahoo!ニュース」の記事というのは、先日もここで紹介した、ほかならぬ
私が『週刊金曜日』の12月10日号に書いた記事のことだ(それは後で綿井さんにも確認した)。まあ、これに限らず『週刊金曜日』の「Yahoo!ニュース」転載記事というのは、それが「『週刊金曜日』の記事である」というだけで、ヤフコメ民がろくに読まずにアンチの声をコメント欄に書きなぐってくるケースがこれまでも多くて、私自身も「あ〜、またやってるよ」と適当に受け流していたところだった。綿井さんが言うように、映画自体を見ていればこういう書き方はあんまり出てこないんじゃないかなというものも多く、そのせいかどうか10日の上映会後は追加のコメントもぐっと少なくなっている(無論、たぶん話題として既に飽きたということもあるんだろうが)。
ただ、そうしたコメントを斜め読みしながら「もう少し映画自体の内容についてしっかり記事で説明しておけばよかったな」との反省も覚えたのも確かで(紙の誌面での1ページ記事ということで分量の制約もあっただけに難しかったのだけど)、監督の原さんにはその意味でちょっと申し訳ないことをしたかなとの念も覚えた次第。そう、まずは(この映画の場合は特に「まず作品を見たうえで議論してほしい」のであって、そのそもそもの機会であるはずの上映会が「文化庁の逆お墨付き」によりあちこちで中止になってしまっているところに、今回の事態における、まず一つの悩ましさがあるのだ。
そしてもう一つ、「遺族からの抗議」について。
これについては私自身の過去の体験に準えても他人事と思えないところがある。私にとってのそれは約20年前、オウム問題を取材していた時期における記憶だ。社会からの排斥の動きに遭っていたオウム信者たちの状況や、彼らの声を紹介するたびに批判にさらされ、その時にお決まりの如く持ちだされた論拠が「(サリン事件などの)被害者(およびその遺族)の気持ちを考えろ!」というものだった。
当時の私は、そんな声に接するたびに
「お前らが勝手に『被害者』を『人質』にとってモノを言ってくるんじゃねーよ!」
などと、ほとんど暴言のような反論(?)をウェブ上でも吐いていたものだった。TBSの坂本弁護士インタビューテープ問題(1996年)のこともあってか、当時はマスメディア界全般にこの事件被害者(遺族)感情への過剰な忖度というのが溢れ返っており、オウム問題に関しては「遺族の気持ちを考えろ!」といった言葉を持ち出されるだけで誰もがほとんど思考が停まってしまい、それ以上の議論が全くできなくなるという状況が続いていた(ていうかほとんど今でも続いている)。
さらに、オウム問題でもドキュメンタリー映画の上映中止案件が持ち上がっている。森達也さんの「A」そして「A2」だ(ちょっとこのあたりでテーマが「精神障害者」からは少し外れるけど、過去の類例ということでしばしお付き合い願いたい)。
まず1作目の「A」がマスメディアからほぼ黙殺され、上映にも苦労したという話は割とよく知られている。だが、後者の「A2」で、作品の一部カットや、ひいては一時は作品自体の「封印」が検討されるまでの事態に直面していたことは、あまり知られていないかもしれない。
その理由は作中に出てくる登場人物からの訴え。そう、ある意味で今回の『夜明け前のうた』で登場人物の遺族から当該場面のカットや上映中止の訴えが出てきたことにも通じるケースである。
「A2」でのその当事者は、麻原彰晃(松本智津夫)の三女である松本麗華さん(教団内ではアーチャリーというホーリーネームで呼ばれていた)だ。今ではすっかり成人になった彼女だが、映画に登場していた頃はまだ10代。また、作中では彼女が本名を名乗る場面が出てくる。
その麗華さんの登場シーンはもちろん森さんが自身で撮影のうえ盛り込んだものである。だが、両者の間での連絡の行き違いもあって、作品が出来上がった頃になって麗華さんから「あのシーンは使われていないですよね?」との連絡が入ったところから事態がややこしくなった。麗華さんは「私たちの置かれた状況が分かっていない」と森さんに訴えたし、彼女が未成年者だったことも看過できない点となった。その段階で「A2」は既に山形映画祭などでお披露目上映され、あとは劇場公開するばかりだったが、森さんには今さら自分の作品について一部とはいえカットすることへの抵抗があった。ならば「いっそのこと作品自体を封印してしまおうか」というところまで追い詰められた末に、最後は断腸の思いで当該場面のカットを決意した(などと見てきたようなことを私が断定調で書けるのは、当時たまたますぐ横でそのプロセスを見ていたからだ)。
ちなみに、今では劇場公開時にカットされたその場面は元に戻されている。森さんはカット問題で麗華さんとのご縁を失うことはなく、以後も交友が続いた。
そのうえで『夜明け前のうた』問題に話を戻すと、原さんは抗議をしてこられた遺族の方へ改めて取材したいとの意向を、上記の『週刊金曜日』記事の中でも語っている。会見に出席した私はその場で「例えば取材したうえで作品の一部カットや修正はあり得るのですか」と質問したが、原さんは遺族取材については「続編」という形でまとめたいとの旨を回答。一部カットや修正については「既に作品をご覧になった方々への裏切りになる」として否定した。
この原さんの意向について「それは作り手のエゴなんじゃないの?」との意見も、実は既にある読者の方から戴いている。確かに新聞や雑誌など、私と同業の活字分野の記者や編集者であれば、外部から事実関係の間違いを指摘されたことを受けて、元のテキストに修正を加えた形で(例えば単行本化やウェブ掲載時に)改編版を公表するというケースは(物書きとしてはある意味で不本意だったり恥ずかしかったりすることはあるものの)一般論として採りえない選択肢ではない。
だが「映画」という、作り手が一つの映像パッケージの中に自らの思いや表現も盛り込んだ形の 作品として作り上げるジャンルの場合は、上記の森さんの例でも感じたことだが、やはり「一度完成させた作品にハサミを入れる」のは抵抗があるのだろうな、とも思う。
ましてや、今回の場合は遺族の側が「事実とは異なる」と言ってきたことに対し、監督は「事実関係の間違いはない」と答え、両者間の見解にはいまだ隔たりがある。だとすれば、少なくとも今は作り手側にとってはカットや修正を議論する以前の段階でもある。
では、そこで問題になっているその「事実」とは何か? 何が正しいのか? ということになるわけだが、それに関連して、最後に私からの短いご報告がある。
今回の上映会と言論フォーラムが行われた翌日の20日(月)夕刻、その「金太郎さん」のご遺族の方から『週刊金曜日』編集部に電話を頂戴した。私が書いた上記の記事をウェブで読んだとのことで、当然私が応対のうえ話を伺った。これまで、原さんと遺族の方との話し合いが進行中であることも考え、私から遺族の方への直接のアプローチは控えていたのだが、これで少し局面が変わったような気もしている。
年明けには『週刊金曜日』で、まだ掲載期日は未確定だが、私も今回の件についての「続報」を書く予定である。詳しくはまた決まり次第、御報告したいと思います。以上、やっぱり長文になってしまって本当にすみませんでしたm(_ _)m

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