岩本版「7日間ブックカバーチャレンジ」その3は、SF→ノンフィクションと来て再びSFへ。というか10〜20代にかけて愛読した(がその後はほとんど読まなくなった)作家の、今でも自宅の本棚に残る数少ない1冊。『
虚航船団』(現在は新潮文庫)
新潮社「純文学書下ろし特別作品」の新作としてこの本が発売されたのが1984年5月。ちょうど「筒井康隆全集」の刊行も進んでいた頃で、当時20歳になったばかりの私は乏しい懐具合の中でも何とか各巻を(全巻は無理だったけど)取り揃え、わくわくしながら読んだ。ちなみに全集については大学を出て社会人になって以降も一応手元にとって置いてはいたのだけど、ちょうど10年前に引っ越しする際、部屋の狭さからどうしても荷物の整理に迫られ、泣く泣く古書店に売っぱらってしまった。もったいないことをしてしまったと思う。
筒井康隆という作家に対しては、まあ、誰にでもわかりやすい一言や二言で表すならもっぱら「ドタバタ」や「めちゃくちゃ」を作品の中でやる人だというところになるのだろうけど、少しでも読み進めてみた経験のある方ならお分かりの通り、その作品世界は実に多様で、読者への間口もだいぶ広い。
それこそ『時をかける少女』(たぶん一般的に一番知名度があるのはこれだろうか)から入った人と『おれの血は他人の血』から入った人ではまるで体験の仕方が違うだろう。これも人気の高い『家族八景』『七瀬ふたたび』『エディプスの恋人』の”七瀬三部作”には独自の読者層がついているような気もする。
だいぶ遅れて『旅のラゴス』から入って「すごく綺麗な小説を書く人だ」と思ったという私の妹などは次に『俗物図鑑』あたりに手を出してしまって「ついてけない!」と読むのを止めたそうだ(笑)。ハードSFが好きな人なら初期の『幻想の未来』や『馬の首風雲録』、オーウェル的な世界が好きな人なら『48億の妄想』、星新一のショートショート読者なら手を伸ばしたに違いない『笑うな』や『にぎやかな未来』、深い交友のある山下洋輔やタモリといった人たちのほうから『ジャズ大名』などの音楽関連小説、純文学の人たちなら『家』とか『虚人たち』、あるいは文壇大御所皆殺し小説の『大いなる助走』−−等々であろうか。ちなみに私自身は確か短編集の『農協、月へ行く』あたりから入って、個人的に一番のお気に入り作品を上げるとしたら『脱走と追跡のサンバ』。
で、高校の半ばあたりから上記の作品群を(まだ出ていなかったものを除けば)だいたい読んでいた私が、大学に入った1980年代前半の頃には、筒井康隆という人は当時まだ40代にして既に全集が出るほどの人気作家になっていた。で、その全集の刊行と並行して登場したこの『虚航船団』は、ある意味で上記の筒井作品のほぼ全要素を取り込んだ集大成的な作品だ。ただし、であるがゆえにというか、刊行された当初は古くからのファンの間でも賛否や好悪が分かれる作品となったようで、評論家の渡部直己氏のように、それまでは熱烈な支持者だったのがこれを境に‟天敵”に回ってしまう人もいた。私自身はというと、正直「何か前に読んだのとおんなじことを集めてやってるみたいなだなあ」という感じで、読み始めた途端に唸りを上げるようなドライブ感で楽しませてくれたそれまでの筒井作品とは異なる、何か一種異様な‟重さ”に違和感を覚えたのも事実だった(が、それでも一気に読み終えてしまった)。
全体を三部構成とするストーリー自体は、一言でいうなら「狂った文房具がイタチの星に攻め込んで双方が全滅する話」で終わってしまう(^ ^; とはいえ未読の人には「それじゃ何が何だかわかんねーよ」だろうし、実際にどういう話なのかを説明するのが実に難しい小説だ。例えば第一部で次々に登場人物として紹介される発狂した「文房具」たちは、別にそういう綽名ではなく正真正銘の文房具(「ホッチキス」は「コココココ」と針を吐き出したり、色情狂の「糊」は全部を放出した末に丸まったりする)である一方、数を数えることしか関心がない「ナンバリング」は数字が「000000」と揃った途端に「うはははははははははははははははははははははははははははははは」と果てしなく大爆笑を始めたり、「コンパス」が排便時に変な儀式を行う(とされているのだが、この詳しい模様は「後述するように」と言われながら最後まで後述されない)とあるように人間としての描写もなされている。そこは作者自身も後に「映像化不能な作品として書いた」というように、あくまでも文字の上でしか表現されない世界になっている。
第二部で描かれるイタチの星の歴史にしても、現実の人類の世界史をモチーフとしてはいるものの一体どういう情景がそこで展開されているのかが映像として頭で想像しにくいし、第三部の終末戦争に至っては、これもその頃の筒井作品では既に得意技となっていた「作者自身の乱入」も加わり、文章的にもやがて改行も句読点もなくなる混沌の極致。最後は文房具とイタチの間に生まれた「大きな息子」が自分の「夢」を語る台詞で終わる――って、う〜ん、これだけ読んでもやっぱりわけが分かんないでしょ?
とはいえ、いま振り返ると筒井康隆という作家がこの作品をそれまでの集大成というより、ここからまた何か新たなことをやろうとする出発点に位置付けていた(ただしその後は「滑り気味だなあ」とも印象も個人的には強いのだが)ということも理解できる。先に挙げた『旅のラゴス』は、この『虚航船団』の執筆が終わった途端に作者の頭に浮かんできたという、見事にファンタジックに完成されたSF短編連作で、つい数年前にも何故か突然ベストセラーになったりしていた。『虚航船団』の末尾で語られた「夢」も、数年後には「虚構と現実と夢」をテーマにした『夢の木坂分岐点』という傑作長編へと結実していく(もっとも、私が熱心に読んでいたのはこのあたりまで。後は自分もメディアとかジャーナリズムの世界の仕事に入っていったせいか、だんだん筒井作品からは遠ざかってしまったのであるが)。
この作品から36年、既に80代の半ばに差し掛かった筒井康隆は、なおも毀誉褒貶を浴び、昔からの読者の期待・失望双方の声を浴びつつも今なお新たな作品に取り組もうとしている。今年の初めには愛息の伸輔さんにも先立たれる(食道がん、享年53だったという)など、ご本人も老いて満身創痍の状態ではないかとお察しするのだが、そのタフネスぶりには敬服するばかりだ。手放してしまった全集の手触りを久々に手にした『虚航船団』のカバーで思い出しつつ、やっぱりそろそろ再読を始めてみようかと思ったりもするコロナ禍の初夏だ。

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