東京・新宿の思い出横丁にある老舗定食屋で、私が20代の頃から1〜2週間に一度は晩飯を食いに通っていた「やぶ天食堂」が、なんと昨日(17日)限りで閉店。
ていうか、昨日も普段通りに行ったら店内にいきなり閉店告知の貼り紙が出ていて内心「えっ?」っという感じで知ったのだ。
やぶ天食堂は、焼き鳥屋などの飲み屋が主体の思い出横丁の中にあって唯一、晩飯を取りに来る独り者向けの定食を主体としたお店だ。酒はビールしか出さず、定食のおかずは魚が中心。ニシンやイワシのような普通の定食屋ではなかなか食べられないようなメニューを、築地から仕入れてきているらしい素材で出してくれる。
店ははっきり言ってかなり狭い。横丁を新宿駅寄りの入口から入って北に20〜30mぐらい進んだところの右側に、ウナギの寝床のようなカウンターのみのスペースが奥へと伸びている。鍵型のカウンターに10人も座れば満員で、出入りの際には先客にぶつかりながらになる。私が訪ねるのはたいてい毎週末の夜。店主のオヤジさんはすっかり私の顔も覚えていて、サッシのドアを明けて店内に入るなり「おう、いらっしゃい。今日イワシあるよ」あるいは「ごめん、今日イワシ終わっちゃった。おひたしは小松菜ね」などと、がっしりとした体格から独特のバリトンの利いた声で言ってくる。私の定番メニューが600円のイワシ焼き定食とほうれん草のおひたしであることは、たぶんもう10年以上前からご存知だ。
しかし私はオヤジさんとはそれ以上ほとんど話したことがない。サラリーマン時代から、取材などで人に会う仕事が中心だったし、仕事明けでようやく一人に解放されると誰とも口を利きたくなくなるのだ。
もっとも、この店の常連客(中心はやはり新宿周辺に勤め先のある比較的若い独身サラリーマンたちのようだ)はたいていみんな私と同じような精神状態でここにやってくるようで、ほとんどは注文した定食を黙々と描きこんだら「ごちそうさま」と勘定を済ませてそそくさと帰っていく。オヤジさんのほうも忙しい。カウンターの中には彼のほか、若手の男性と女性が一人ずついるだけだから料理や皿洗い、会計で精いっぱいなのだ。また、カウンターには目の位置には仕入れた魚をずらりと並べたガラスケースが連なっているので、その向こうにいるオヤジさんたちとはほとんど顔を合わせずに済む(といったら変だけど)。
そんな「やぶ天食堂」と突然お別れの日が来てしまったわけだが、しかしその最終日も店の中の様子はほとんど普段通りだった。片隅で閉店を知らせる張り紙の他は、別に何か装飾もなければ、特に営業時間中に何かイベントが催されているわけでもない。客足はさすがに普段に比べて少し混みあっていたようだけど、客たちはこれも普段通り黙々と食べ終えたら「ごちそうさん」と席を立って出て行く。
オヤジさんも仕事の傍ら「まいど!」といつものように言い、少し置いて「ありがとね」と言うだけだ。
それでも一応、少しはおしゃべりな常連客さんがオヤジさんと少し会話していたのを横で聞いたところによると、やぶ天食堂自体はこの日で終わるものの、改装したうえで4月からはオヤジさんの娘さんがここで飲み屋をやるのだそうだ。
「ま、俺がいなくなるだけだよ」と語るオヤジさんの口調はあくまで屈託がない。
それを聞きながら、確か初めてこの店に、当時の職場の同僚だった兄貴分(私と同時に新卒入社した人だが、早稲田の大学院を出て5歳上だった)に連れられてやってきた頃のことを思い出した。当時、私はまだ東京に出てきたばかりの23〜24歳。その時は「こんな騒々しくてせわしない街なんかで、俺みたいなのはそんなに長くやっていけないよな」と思っていたものだった。
ところが、である。その後は20代、30代、40代……とひたすらコンスタントにこの店に通い続け、気が付けば来週末には東京に出てきてから29年、1か月後には53歳になるところまで来てしまった。その間、店内の雰囲気はほとんど変わることがなかったし、一番の変化と言えば私が30歳近くも齢をとったことぐらいだ。しかし、私を最初にこの店に誘ってくれた同僚は既に久しく前にこの街を去り、当時新人として入った会社も今はもうない。その後も次々に私の目の前からは様々な人やら会社やら建物やらお店やらが去って行き、とうとうこの「やぶ天食堂」まで、まさに思い出横丁から思い出の彼方へと去っていくことになってしまった。
このお店さえも俺を置いたまま去っていっちゃうんだな……と、最後となるイワシ焼きにかぶりつきながら思ってみる。何か胸に来るものがあるのかな、と思ったけど、しかしやっぱり私はいつものように、カウンターで何百回座ったんだという丸椅子に腰かけながら、淡々とイワシの骨までバリバリと嚙みしだき、奥歯に刺さった小骨を爪楊枝でえぐっていた。最後まで特にこみあげてくるものはなかった。いつもの味を噛み締めるのが先で、特別な感情は後からじわじわと喉の奥からしみてくるのかもしれない。
結局、私もいつも通りに「ごちそうさま」と言って(私は食べ終わった後はどの店でも店員さんにこれを言うようにしている)、オヤジさんに「まいど! ありがとね」と言われてお別れした。最後まで、いつものように。
ごちそうさま。美味しかったよ、本当に。今まで、ありがとう。

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