「吉永春子さんと18年前にサシで向き合った日の思い出話」
訃報
直接お会いしてお話を伺ったのは二回だけだったけど、そのパワフルぶりは実に印象的だった。
「
日本のテレビ放送人の草分け 「報道のお春」 吉永春子さんが亡くなる 享年85」
(日刊ベリダ 2016年11月05日22:48掲載)
最初にお会いしたのは18年前、当時仕事していた放送専門誌『GALAC』の特集で、民放各局(といっても取材に行ける範囲が限られていたのでもっぱら在京キー局だったけど)で放送されているドキュメンタリー番組を特集してみようと提案した時のことだ。例えば日本テレビ系では「NNNドキュメント」、テレ朝系では「テレメンタリ―」、フジテレビ系では「ザ・ノンフィクション」「NON-FIX」、テレ東系では「ドキュメンタリー人間劇場」といった番組の担当者らに私が取材に回ったのだが、そんな中でTBSだけが自社や系列局で制作のうえ「ウチの良心です」的に放送しているレギュラーのドキュメンタリー番組を持っていなかった。
そこでTBSの広報に電話して「どうします。そちらはないですよね?」と相談したところ、
「あ、あります」
と、電話口に出た広報担当者の方が、何故か声を上ずらせながら言った。
「ウチの大先輩で、吉永春子という人がやってる『ドキュメントD・D(Dash.Dash)』って番組が……」
「あ、あ〜〜〜〜〜!!」
と、私もそれまで伝え聞いていた吉永さんの人となりやエピソードについての話を思い出すと同時に、それまで忘れていたことに気が付いたという焦りに慌てながら取材を申し込み、当時はまだ残っていた赤坂一ツ木通り沿いのTBS会館(現在では赤坂サカスが建ってる場所にあった「現代センター」の事務所を訪ねた。
TBSの報道にこの人ありと言われた吉永さんだったが、この時はもうOBとして自らの会社オフィスをTBS会館の中に置いていた。ただ、同社の副代表の男性はTBSから出向していた方であり「近くの喫茶店でお話ししましょう」という吉永さんに帯同して3人で赤坂の街に出たのだが、途中の信号待ちの横断歩道を横切るクルマがないと見るや、赤信号を無視してどしどし渡っていった吉永さんの背中を副代表と私が慌てて追っかけた場面が、何だかやたら印象に残っているな(^o^;
後に記事にした際には私も「OBにやらせるだけでよいのかTBS」と挑発的な中見出しも入れつつ書いたものだが、かつては“民放の雄”を自負していたTBSは当時、その2年前の「坂本弁護士インタビュービデオ問題」で世間の袋叩きにあって上層部の首がスゲ変わるなどして意気消沈状態。しかし一方で周辺のOBたちが意気盛んで(なんかTBSのOBの人たちって、TBSを辞めた後もTBSが好きで仕事やその他で付き合い続けている人が多い気がする)、そうした中でかつて同局の番組「土曜ドキュメント」で数多くの作品を在職中に手掛けてきた吉永さんが、スタートから一貫して自らの「現代センター」製作番組として手掛けてきたのが『ドキュメントD・D』だった。
喫茶店で私と向かい合った吉永さんは、なぜこの番組を? との私の問いにこう答えた。
「
独立して今の会社を興した頃のことですが、若い人を中心に『ドキュメンタリーをやりたいがTBSには枠がない』という声が私のもとにずいぶん寄せられたんです。それで私も『放送のTBSといいながら一本もないのはおかしい』って言ったんですが、ある時に編成から『じゃあとりあえず『ハードなものではなくて、取っ付きやすいソフトなドキュメンタリーをそちらで作ってみてくれませんか』というお話をいただいたんです」
とはいえ現代センターの社員は当時確か十数名程度で、その陣容で毎週1回、30分の枠を埋めるドキュメンタリーを作るのは大変だし、経営効率を考えたらプロダクションとしてはあんまりよい仕事ではないんじゃないですか? と聞いた私に対して、
「
いえ! それは違いますね!」
と、即座にあの独特な啖呵でピシャリと言い返してきた。確か当時で既に60代後半に差し掛かっていたのに、30歳以上も若い私からの質問にも間髪置かずバシッと答えてくれたものだ。
「ウチはゴールデンの番組なども手掛けていますが、そうした仕事とドキュメンタリーの制作とは決して遊離してないんです。ドキュメンタリーを通じて様々な社会現象を幅広く見ていくことで、その後ゴールデンにつながるヒントも見つかるわけだし、その逆もありうる。実際に編成が『ドキュメントD・D』を見て『これゴールデンでもイケるんじゃないですか』と言ってきたことも何回かあります」
吉永さんによると『ドキュメントD・D』では基本的に取材ではクルーは組まず、ディレクター1人がデジタルカメラを抱えて出て行く体制をとることで「機材や人数で経費を削った分は取材に投下しなさい。だったら結果的に無駄足を踏んだ取材でも大した損害にならないよ」と言っていたそうだ。
それが1998年のことである。そしてその時点で自分が映像で何かを発信しようなどとは夢想だにしなかった私が、やがて自らもデジタルビデオやスマートフォンを抱え、様々な出来事の現場まで単身で赴いてはそこから映像で発信するようになった。たぶん、今でも上記の18年前の取材でお会いした吉永さんのことを時おり思い出したりしているあたり、私もまたあの日の出会いを通じ、今につながる何かを得ていたのではないか、そんな気がする。ただ、はたして吉永さんがここ数年のメディア状況をどんな思いで眺めながら旅立っていかれたのだろうか、とも思うわけだが。
吉永さん、ありがとうございました。合掌。

2