このところ訃報続きなんだけど、こちらは既に亡くなられてから3ヵ月以上も経ってからようやく知った。不覚だ。
「
訃報(日置孝次郎先生)」(七友会ネット 7月10日付)
大学時代の恩師ーーと言えるほど私は真面目で勤勉な学生ではなかったので、ゼミの担当教官で卒論も見ていただいた、ぐらいに言うべきかもしれない。ただ、とても素敵な先生だった。今ではとうに無くなってしまった「地域文化コース比較言語学専攻」という、わずか5〜6名のゼミ生を相手に毎回、洋の東西に股をかけた民俗学と語学に関わる、まだ20歳そこそこだった私の知性や感性を思いっきり刺激してくださる話を講義や演習の席で繰り広げてくれた方。
だらしない学生だった私が遅れて教室にやってきても嫌な顔一つせず、「岩本君、よく来ました。ちょうど今、人間の『死』にまつわる伝承についての話をしていたところです」と、飄々と次から次へと意表をつく話題を語り出す。卒業後の就職先もおぼつかなかった私たちにも「まあ、私も30歳まで定職はなかったですからね」と言いつつ「私は30代で横浜で高校の英語の教師をしておりまして……」と語った後には、その後にドイツに留学した後、アメリカで先住民と一緒に暮らしながら世界で唯一のアメリカ・インディアン語の辞書を作った(現物も見せていただいた)とかいう20歳の田舎学生には理解不能なエピソードの連発。
しかも、私たちを相手に岩大教授として教鞭をとっていた50代後半のその頃には、市内の別の大学で教鞭を振るう奥さんとの間に50歳をすぎて初めて生まれた我が子の世話もしながらの毎日。そんなキャラクターにひかれてアポもなしに研究室を訪ねて行った私が「僕は今こうしようと思うんです」と切り出すと「うん、それはとてもいいことだと思いますね」と答えてくださったり。
卒業後は、なにぶん岩手から東京まで出て行った私は先生とまったく連絡をとることもなかったが、一方の先生も岩大を退任した後は八戸の私大の学長になったり天理大学に行ったりと、元気に活躍されながら、かつて私たちに話してくださったような話を後進の学生たちに話したり論文を書いたりしていたようだ。
何とか最後に一度だけお会いできたのは、5年前に盛岡で行われた学部の同窓会での席だった。すっかりお年を召されていたが、それでもまだお元気で、まだ若い息子さんが私と同じライター家業のようなことに就かれていたとのことで、握手をしながら「また会おう!」と言ってくださった。でも、結局それが最後になってしまった。80歳を超えても精力的に論文を執筆されていると聞いていたが、さる7月初旬に88歳の傘寿にて冥府に旅立っていかれたという。
今でも大学時代の専攻を訊かれて応えるたび「比較言語学って、どんなことをやるんですか?」とよく訊ね返される。そのたびに「あの時、先生に聞かされた話をうまくアレンジして説明できたらいいのに」と常に思う。一応卒論でもしっかり書いて、学科全体での卒論中間発表の際にハッタリ交じりで延々プレゼンした後で先生から「よくあそこまで語れましたね。びっくりしました」とおほめの言葉をいただいた覚えもあるんだけど、その後に東京に逃げってって全然畑違いのマスコミ業界記者家業をやったりしているうちに、そっちの頭はすっかりさび付いてしまった。
先生は意外に、自分が普段の講義や演習で語っていることをを書物にし出すことには淡白だった。「いや〜、もたもたしているとそのうち岩本君たちに書かれてしまうかもしれないですね」などとゼミ生たちを前に屈託なく語っていた姿を思い出す。
もちろん、今では国立大学教授でもあった先生が発表した論文はネット上で、例えば以下のURLなどを通じていくつか当たることはできるみたいだ。
http://ci.nii.ac.jp/author?q=%E6%97%A5%E7%BD%AE+%E5%AD%9D%E6%AC%A1%E9%83%8E
でも、20歳になったばかりの頃、静岡から盛岡まで何もわからず進学してきたガキんちょが話を聞きながら「なんだかしんないけど、この先生の話ってすげーおもしれー!」って感じた瞬時のときめきをも込めながら、かつて毎日のように聞いていたあの話を再現できればいいのにな、とも思う。
そもそも、気が付いてみれば今の私は当時の貴方とほぼ同じくらいの年齢に差し掛かってきてしまいましたよ、日置先生。どうか安らかに。そして、できたら私もあの頃の先生のように、50歳を超えても毎日を楽しくマイペースに生きながら命をまっとうできる自分でありたいです。最後は5年前にお会いしたきりでしたけど、そのうちまた昔みたいにふらりと訪ねていきますので宜しくお願いします。では。
……と言いつつ、今から9年前に岩手大学人文社会科学部の学生課から「学部ができて30周年の記念誌を出すので、卒業生の一人として何か書いてくれ」と頼まれた際、日置先生との思い出を引き合いに書いた以下の拙稿も以下に転載しておくことにしよう。たまたま京都精華大学の授業に講師として呼ばれた際、母校からそうした依頼がやってきたってことで話題として使わせてもらったのだが、5年前に最後にお会いした先生は「何か僕のことを書いてくれたそうだね」と言いつつも記事自体はまだお読みでなかったご様子だった。なので、これも併せて載せることで、旅立っていかれた先生へのたむけとする。
(以下、岩手大学人文社会科学部30周年記念誌に寄せた拙文)
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「岩大」の、しかも「人社」から電話を貰うなんて何年ぶりだろう――留守電メッセージを聞きながら、思わず感慨にひたっていた。前回はといえば、それこそ北謳寮でうだつの上がらぬ日々を過ごしていた最中に、教務課から成績不良だか履修申告の夏季間違いだかで呼出電話をくらった二十数年前の現役学生時代以来、ということになるのか?
ともあれ、東京の留守宅にこの原稿の執筆依頼の連絡をもらった日、私は出張先の京都にいた。かねてより知り合いの大学教授から「フリーライターという生き方について授業で話してくれないか」との依頼を受けたのだ。
その大学は京都市北部の丘陵地帯にあった。そういえばここって村上春樹『ノルウェイの森』の舞台になった辺りじゃなかったか? 当時出たばかりだったあの赤・緑の上下二冊を岩大生協の本屋で買い、隣りの学生食堂で読んだなあと往時を懐かしんだのも束の間、呼ばれて入った大教室の教壇に立ち、一〇〇名ほど集まった学生たちに向き合った途端、私は思わず息を呑んだ。
――そこには二十年前の「僕」がいた。
教授によれば、この日集まった学生たちの多くは「将来はフリーライターになりたい」と思っているという。しかし同時に、彼らの多くはフリーライターはおろか、これから先の自分の進路についての具体的な手がかりが得られぬまま悶々とした日々を過ごしている。そこに呼ばれた、現役フリーライターである男を見つめる彼らの瞳の奥にいる、二十年前の「僕」に向かい「私」はこう切り出した。
「大丈夫。フリーライターなんて、あなたもそういう肩書きの名刺を作れば今すぐにでもなれますってば!」。
そういえばヒオキ先生も、こんな気持ちで「僕」を相手にしていたんだろうか……教壇で語りながら、そんな思いが頭をよぎった。
当時「僕」が所属していた「比較言語学」というゼミは5〜6人のよく言えば少数精鋭、悪く言えば群れるのを好まないへそ曲がりな学生たちが集まる遊撃隊的な集団だった。
いったいそこで自分が何を勉強したいかも分からず、覇気の無い目で教室に顔を出す「僕」らを前に、当時五十代末だったヒオキ先生は毎回、飄々とした口調で語り続けた。
「僕も三十歳ぐらいまで定職がなかったなあ。その後は横浜で高校の英語教師になって、西ドイツに留学して……」
が、同時にそうした屈託ない風情のヒオキ先生の口から欧米や日本の文化習俗に関する、意表をつくような教養が次々に飛び出すのが無性に面白かったのも懐かしく思い出す。
もとより今やその大半は忘れてしまったけど(すみません……)、妙な権威や常識などに縛られることなく、自由奔放な思考を聴く者にも促すヒオキ先生の話を三年間に渡って毎日のように聴き続けた「僕」は、卒業式の二日後、住みなれた盛岡の街と北謳寮に別れを告げて一人上京。さらにその三日後、新聞の求人広告で偶然見つけた広告業界誌の会社にアルバイトと勘違いして応募したところが、いきなり正社員として採用されてしまったというところから、いわゆるプロのライターとしての一歩を踏み出したのだった。
「……そんな感じですよ。ね、誰でもなれるでしょ?」と言い、私は講義を締めくくった。そんな私を、豆鉄砲でも食らったかのような表情で見つめる学生たち。
かつて何者でもなかった「僕」は、実は今も何者でもない「私」でしかない。それこそ「フリーライター」なんて紙切れの肩書きでしかありえない。けれどもあれから二十年、結局「僕」は「私」になることができたんだ。だから何も焦ることなんかないんだよ……。
そんなメッセージを二十年前の「僕」らに託し、ふと教室の外に広がる京都の山並みを見やりながら思った。ヒオキ先生は今頃どうしているだろう? そして盛岡――あの緑豊かな街を、あの頃の「僕」が今も悶々とした思いでほっつき歩いているのだろうか、と。
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