昨日は「父の日」だったそうな。個人的には全然意識の外だったけど、テレビとかを見てたら盛んにそう言うので「そうなんだ」と気づかされたくらい。
私は9歳の時に父親を病で失い、以来既に40年近く「そういうもの」とは無縁な人生を送っている。だから正直「父の日」と言われても、何だかピンとこない。
もちろん9歳まで父と接していた頃の記憶はあるが、今から振り返れば何とも朧気なものだ。最期だって確か死の3週間ぐらい前に入院して、死に目に会うどころか一度も見舞いに行く機会もないまま、あっという間に三途の川を渡っていった。そもそも死に瀕した病だったということも死後に聞かされるまで想像だにしなかったし、当人ですらたぶん意識のあるうちに気づいていなかったのではないか(付き添っていた母ですら、数日前にようやく医師から聞かされたらしい)。
享年37歳。死因は「骨髄性白血病」だったとしか聞かされていない。たぶん今だったら事前から本人や家族にもきちんと情報が伝えられたことだろうが、そこはまだ1970年代半ばの話だ。
ともあれ、以後の私は「母子家庭の長男」として生きることになった。当時9歳の私の下には6歳の弟と2歳の妹たち(=双子)がいて、いきなり未亡人にさせられた母はまだ33歳だった。
以後、我々に、そして私自身に注がれる周囲からの視線が変わったな、ということは子供心にも感じていた。特に“大人の男性”たちが、そうした立場にある私を見る時に瞳の奥底から滲ませる、どこか“尖った”ものも。
「無念だったろうね……」
数年前、既に成長してそれぞれ結婚もしていた妹たちとの酒席で、二人の口から末期の際の父の心中に思いやる、そんな言葉を聞かされたことがある。
正直、私はたじろいだ。なぜなら妹たちには生前の父についての記憶などないことは知っていたし、37歳で急死したあの男が、私はもちろん、当時まだ2歳だった娘たちのことを人生の最期に思い浮かべる余地などあっただととは、それまで想像だにしていなかったからだ。
「理由はどうあれ」と、少しだじろぎながら私は思わず語気を強めて言った。「あの時まだ君たちも小さかったし、お母さんも若かったんだ。そんな家族を後に残したまんまいきなりあの世にいくなんて、親のやることじゃないよ」
そんな私情もあってか、私は今なお「父の日」には素直に向き合うことができない。そもそも何で自分をそんな境遇に置き去りにしていった父親に感謝できるのかといった率直な思いと、「どうせ俺も37〜38歳には死んじゃうんだろうな」と思いながら自分が「父」になることを躊躇っていたような節もなくはない。
ところが今や妹も「母」になり、私自身、同世代が「父の日」でお祝いされるところまできてしまったというのだから……。
また暗い話を書いちゃったな(苦笑)。

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