「日本に帰ってきた途端、自分のまわりでドアがバタバタ閉まっていく感覚」
日記・雑記
久々の投稿にてすまんね。以下の記事を読みながらふと書いてみた。高遠菜穂子さんの発言に絡む記事をこのサイトが報じたというだけで、約10年前の出来事へのノスタルジーやら何やらで騒ぎたい向きも大勢いるだろうけど、まあ放っときゃいいか(^ ^;)。
「
日本語メディアやジャーナリストが伝えない、世界の常識が増えている」
(「What'sデモクラシー?」2015年10月6日)
「
帰国した途端、自分のまわりでドアがバタバタ閉まっていく感覚があるんです」
……これなんだ。かつて私も、おそらく同じような感覚を覚えたことがあった。
大学を出てすぐに東京に出てきて「日本の」マスメディアについての業界誌に就職した私は社員編集者・記者として5年間働いた後に退職し、在職中に溜まったお金を使い、ユーラシア大陸の南岸を韓国からギリシャまで約半年間がかりでバックパッカーとして訪ね歩く旅に出た。1993年の春から秋にかけてのことだ。
そんな職歴が旅立つ前にあったからだろうか、旅先のアジアの街角や泊まり歩いた安宿のテレビに映っていた英語や中国語による国際メディアを見ながら、結構複雑な思いを抱いたものだ。「英語や中国語だと、国境を超えて自分が作った記事や映像が世界中のあちこちで普通に見られるんだ!」と同時に「世界中で見られるけど、日本の国内では見られないんだな……」と(いや、当時も今も日本にいてまるっきり全部が手が届かないわけではなかったんだろうけど、国内発のメディアに比べれば接触機会がかなり少ないのは確かだろう)。
英語のメディアだったら、たとえばアメリカの地方紙だって世界中のあちこちにいる英語力のある人なら普通に読める(というか、そもそもNYタイムズやワシントン・ポストだってアメリカの地方紙なのである)。香港のゲストハウスで連日見ていた衛星放送のスターTVの番組告知は時差に合わせて「香港・インド・UAE」での放送時間入りで、その同じ番組を少し後に辿り着いたインドのバラナシ(だったかな)の街角にある地元のおっちゃんたちも入るような食堂に置かれたテレビで私は見た。
中国語のメディアだって、人民日報や中央電視台もあれば、香港や台湾やシンガポールや、東南アジアの華僑系のメディアがある。つまり言語やメディアが国境はもちろん政体を超えて存在する、それを母言語とする何億人もの市場がバックで支えてくれているのだ。韓国・朝鮮語だって、朝鮮半島の南北に分断されて存在する二つの国家のほかに、中国や日本にも同じ民族の方々がいる。同じ言語を使い、同じルーツを持つ生活風習に沿って日々の暮らしを営みながらも国籍が違う人々(もちろん、何でそうなったかという歴史についてもよく踏まえておく必要があるのだが)の間で、少なくともまったく共通の「読む」「見る」「聴く」という行為において、それは消費される土壌がある。
「それに比べて……」と、当時まだ20代だった私は思った。私が仕事をしてきた日本の「マスメディア」なんて、所詮は「海に囲まれた日本の中で、日本語がわかるたかだか1億人ちょっとの人々の間で消費されるのがほとんどのローカルメディアなんだな」と。もちろん海外各地には日本人がたくさんいるし、日本にルーツを持つ持つ人々もいるし、日本には親戚も知人もいないけど日本に関心があって日本語を学んでるという人もいる。
でも、日本の「マスメディア」ってやつは、おそらく深層心理で「これは日本にいる、日本人のために読まれる(見られる)ものだ」との前提に成り立っているし、おそらく仕事などで海外各地に住んでいる日本人については「例外的なお客さん」、そして日系人の子孫などについては……これはネガティブな表現を敢えて使うのだが「国を捨てて出て行った奴の末裔なんかどうでもいいよ」みたいなもんなんじゃないか?(実際、南米の日系人社会をベースとした日本語のメディアが日本国内でも普通に読まれているか? 日本に働きにきた彼らだってもっぱらインターナショナルプレスのようなポルトガル語やスペイン語のメディアを読んでいるんじゃなかろうかと、ここは最近あんまり直にアクセスしてないのであくまでも想像として言う)
そして日本に住んでいて日本語しかわからない私たちは、たとえ日本や日本の外で大きな事件や出来事があったとしても、直接その場に訪ねていかない限りは、あくまでも「日本国内でしか流通しない日本語のメディア」を通じてしか、それを知ることができないのだ。
別にそれで支障はないだろうと思われるかもしれないけど、これが世界中に通用する言語で日常的に世界中に配信されるメディアだったら、たとえば東京は中野区のボロアパートに住んでいる私と、ニューヨークでもテヘランでもブリスベンでも平壌でもどこでもいいんだけど、それぞれにまったく違う生活環境で暮らしている人たちが同じ報道を読んで、今だったらSNSとかを通じて感想や意見を述べ合ったり議論したりすることだってできるのにな、と。
「もし俺が帰国してこの人の事を書いても……」と、22年前のその旅路の際、インドのタージマハルを訪ねた時に乗ったリキシャー(人力車)引きのおっさんと別れ際に一緒に街角でチャイ(ミルクティーみたいな感じ)を呑みながら私は思った。終日楽しくつきあったこのおっさんとの語らいを、もし日本に帰ってから日本語の記事にできたとしたって、それは彼のところまで決して届くことはないんだな……(そもそもこのおっちゃんは英語は話せるけど、文字で書くことはできないらしいと、これも別れ際にようやく気付いた)。
「だったらお前も外国語を学んで記事を書けるようになればいいじゃない?」と言われるかもしれない。でも、その時の私は「英語で記事を書く自分」というのが頭の中で上手くイメージできなかった。
高度成長期の日本に生まれ育ったものの「日本人が海外まで単身で長期間の旅をする」なんてことが普通にできるなどとは学生時代までおよそ考えられなかった世代だし(だいたい大学3年生の秋にあったプラザ合意まで1ドル=240円もしたのだ)、そもそも「ふだん自分が話したり書いたりしている言葉で何か大勢の人に伝えられる仕事ができたらいいな」と思いながら東京のマスメディアの世界に入って、旅に出るまで5年間「日本語の記者」としてスキルを積んできたのだ。それを既に20代最後の齢になった今から語学を勉強してそうしたメディアで記事を書けるかっていったら無理だよ! それに帰国したらすぐに一から就職先を見つけて食っていかなければならないんだからさ……というのが当時の心境だった。
今だったら「誰でも映像を撮って作品を作れるし、インターネットで発信もできるよ」ということになるんだろうけど、23年前の当時は後にそんなものが出てくるとは思わなかったし、帰国した後に就職した、あまりにもジャパニーズ・ドメスティック・ブラック企業(ひでー英語だな)でのうんざりするような仕事に引き回され、後に頭にきてやめてフリーライターとして独立しながら何とかやっていかなきゃ……と焦る日々を過ごすうち、そうした忘却の彼方へと去ってしまっていた。
でも、今でも「華僑メディアがOverseas Chinese Mediaなら、Overseas Japanese Mediaがあったらいいのにな」と思うことがある。日本の国内市場や、あるいは日本の政体みも拘泥することなく、それでも海外各地に散在する「日本語」世界を結びながら日本語で全世界に発信し、それが世界にも、日本国内にすむ人々にも読まれて、時には私がインドであったリキシャーのおっさんについて書いた記事が地元の誰かの目にとまって翻訳されて当のおっさんから「おーう!」って返事がくるような――そんなメディアを作れたらいいなと大それたことを思いながら帰国したのが22年前で、今の私はその理想の実現からはおそろしく遠い環境からこれを書いている(- -;

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