2021/6/9

「それぞれの年月」〜付属池田小学校事件から20年A  教育・学校・教師


 大阪教育大附属池田小学校の事件から20年。
 生き残った子どもたちは、周囲に支えられて力強く生きていこうとしている。
 遺された親たちも、虚しさを抱えながらも静かに生きようとしている。
 しかしあの日、
 助けられる命をみすみす手の中から漏れ落としてしまった教師たちは――

という話。
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(写真:NHK)

【子どもたちの20年】

 一昨日までは附属池田小事件20年目に関する報道もあまりなかったのですが、昨日(6月8日)当日になるとやはりどっと出てきました。

 当時現場にいた児童としては、同級生が刺される場面を直接見てしまった子、宅間守に体をぶつけられた子、目が合ってしばらく凍り付いたままだった子、体育館にいて訳も分からず避難してそこで倒れている子やシャツが赤く染まった教員を目撃した子など、さまざまな“その日の様子”が紹介されています。

 さらに事件後は、
・ その後も、不安感が続き、救急車のサイレンやヘリコプターの音に強く反応することもありました。さらに、“誰かが侵入して来るかもしれない”と、戸締まりに執着し、何かにおびえるような状態が続きました。(体育館から避難した児童)
・ 事件後しばらくは、大人の男性が目に入るだけで、反射的に母親や建物の陰に隠れた。時間の経過とともに当時を思い出す頻度は減ったが、成人するまでフラッシュバックは続いた。(宅間守と直接目を合わせてしまった児童)
など。

 子どもにとって体験は画像・映像として記録されるだけです。やがてそれは言葉によって表現され、大きさや形を整えてようやく意味が理解できるものとになります。その時の感情や感覚も、言語に置き換えられて初めて手にとって解釈できるものになる――したがって回復までは時間がかかります。

・ 振り返ると、伊藤さんの周りにはいつも子どもたちを必死に励ます大人たちがいたのです。「当時のことをふと振り返ることがあり、大人たちが自分を元気づけ、応援してくれていたのかなと年をとるごとに身にしみて分かってきました」
・ ふさぎ込んでいた渡邉さんを元気づけたのは、地元のチーム、ガンバ大阪のサッカー選手たちでした。幼なじみが亡くなったあと、学校を慰問に訪れた選手と交流したり、試合で花束を渡したりした思い出。その思い出に支えられ、徐々に元気を取り戻した渡邉さんは、いつか自分でも周りを元気づけられるようになりたいと考えるようになりました。
・ 高校生になって将来の進路を考えたとき、事件のときの、あの光景がよみがえりました。
「医者になる理由、なりたい理由を自分のなかで探したときに、一番最初に出てきたのは事件のときのあの光景でした。事件のときの女の子のような子が目の前にもし現れたら自分が助けたい。助けられるようになりたいと思いました」


 事件が事件だっただけに医療を中心とした手厚い支援が継続的にありました。おかげで子どもたちの成長はむしろ順調だったのかもしれません。その生き方の根っこを、事件の記憶がしっかりと支えています。


【親たちの20年】
 子どもたちの時間は短く、成長は矢のよう速いですから変化も瞬く間ですが、大人である親たちはそういうわけにいきません。

 昨日、最も早いニュースで見たのは、殺された一年生の男の子の母親、戸塚正子さんの手記でした。
 健大がいなくなってからは、健大のお友だちの姿に重ね、心に重ね、健大の面影を追っていました。次男が誕生してからは、その成長を、健大の夢の続きを見ているような思いで見守ってきました。
 ただこの頃は、27歳の健大をどう考えてみても想像することが出来ず、やはり、ここに健大はいないのだという喪失感でいっぱいになります。
 どれほど月日が流れようとも、私どもの我が子への思いは何ら変わることはありません。やはり、ここに健大はいないのだという喪失感でいっぱいになります。


「ああ、これは本人でなければ絶対に気がつかないだろうな」と思ったのは次の一文です。
 コロナ禍で、これまでの私の日常が奪われ、人と会うことも語ることも許されない状況がなお一層、悲しみや苦しみをあらわにさせたのかもしれません。

 戸塚さんの息子の健太君は、8人の犠牲者の中でたった一人の男の子です。宅間守は卑怯者でしたから選択的に女の子を襲ったのかもしれません。15名の負傷者も、教員二人を除いた13人中8名が女の子です。しかしここでもっと重要な点は、健太君が8人の犠牲者の中でただ一人の一年生だったということです。

 宅間守は2年生の3教室をなぎ倒すように襲った後で、1年生の健太くんの教室に入り、そこで4人を刺したのち、副校長と他の一人によって制圧されます。その間およそ10分あまり。
 職員室に走って警察に連絡した女性教師を含む少なくとも3人の教師が、健太君の教室横を通ったにもかかわらず誰一人避難するよう呼びかけなかったのです。誰か一人でも逃げるように言っていたら、健太君は殺されずに済んだのかもしれない、つまり8人の中で最も死なずに済んだ可能性の高い子だったわけです。
 親の無念や恨みはひときわ大きかったように想像されます。

 昼のニュースでは附属池田小学校の追悼集会に向かう一人の母親がインタビューを受けていました。
「20年がたっても、朝、目覚めると夢であってほしいと思う気持ちは変わりません。きょうは大切な娘と向き合い、これまで自分が何をできたのか報告してことばを交わす1日にしたいと思います」
 その落ち着いた様子には、やはり20年の歳月が感じられます。
 戸塚さんの手記もそうですが、恨みや憎しみといった負の感情は年月の浸食に耐えられないのです。そして虚しさだけが残る。


【教師たちの20年】

 当時の教師でインタビューに答えた人は多くありません。
現在の附属池田小の眞田巧校長は事件当時の6年生の担任です。事件は校庭に逃げ出す1・2年生を3階の窓から見下ろすところから始まり、1階に降りたときにはすでに宅間守は制圧されていました。
 同じように何が起こったのか分らないまま、犯人が押さえられたあとの現場に入った教諭に1年生の別の担任がいました。たまたま体育の授業で他の場所にいたため、本人も子どももケガひとつしませんでした。この人も現在は別の学校の校長先生です。
 ふたりとも体験者として学校運営の立場から発言していましたが、事件に関して言えば犯人と直に渡り合ったわけでもなく、自分のクラスに犠牲者が出たわけでもありません。つまり直接、責任を問われる人ではないのです。

 事件直前に宅間守とすれ違ったのに声もかけなかった男性教諭や、子どもを置き去りにして通報に走った教諭、全体把握に思いが至らず結果的に多くの子どもを放置することになった副校長、教室で泣きながらけがをした子どもを抱きしめていて、周囲に知らせることに気づかなかった別の教諭――、彼らはその後どうなったのでしょう?

 地獄だろうな、誰にも語れず20年間、じっと耐えてきたのだろうな、そんなふうに思いました。この人たちの20年を私たちが知ることはありません。

――と書いて昨夜は今日のブログのための文章をまとめるつもりでした。
 ところが、昨夜9時からのNHK「ニュースウォッチ9」に、そのうちの一人が出てきたのです。

(この稿、続く)

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