2021/4/6

「校則における三つの役割とひとつの機能」〜「わけの分からない校則」にわけがあるA  教育・学校・教師


 現場の忙しい先生たちに、
 この校則に何の意味があるのかと聞かないで欲しい。
 代わりに私が答えよう。
 しかしその前に、校則の基本的な役割について考える。

という話。
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(写真:フォトAC)

【校則の三つの役割】
 一般に校則と呼ばれるものにはとりあえず三つの役割があると考えられます。これについては他のところでまとめたことがあるので、ほぼそのままで写します。

 第一は集団の秩序を守るためのものです。
 「遅刻をしてはいけません」とか、「授業中は静かにしましょう」といった類のものがそれにあたります。ただし違反があったとき、それを盾に「ここに書いてあるからダメだ」といった言い方で指導するためのものではありません。そこに示されているのは行為の基準だからです。

 第二に危険回避のためのものがあります。「ベランダに寄り掛かるな」「右側通行をしなさい」「廊下は走らない」などがこれです。これらについては説明の必要はないでしょう。
 ただしそれにもかかわらず、「そんな常識的なことまで校則にする必要があるのか」という疑問はあるかもしれません。それに対する答えはこうです。

「人は常識を備えて生まれてくるわけではなく、学齢期になるまで、あるいは中学校入学までに必ずしも全員が常識を完成して入るわけではない」

 「体育の授業では運動着の下の肌着は脱ぎましょう」という小学校低学年の「きまり」ないし「方針」は、実はここに分類されるものでした。
 「運動をして汗びっしょりになったら乾いた布で身体を良く拭き、肌着を交換しましょう」というのは保健衛生上の常識と言えます。しかし小学校の1〜2年生がそんな常識を身につけて、おまけに着替えの用意までしてくるとはだれも考えなかったのです。
 現実問題として、体育のある日に確実に着替えを持ってこさせるのもなかなか徹底できることではありません(中高学年になると自分が恥ずかしいから親に言います)。そこで安易に「体育の時間は肌着を脱げ」とやってこの始末です。まさか教師が(女性教師も含めて)低学年女児の胸の発達を見たいからきまりをつくったなどと言われるとは、夢にも思わなかったのです。
 ドジを踏みました。

 三番目に公平を守るためということがあげられます。
 小中学校の場合、義務教育である以上、原則的にすべての子どもが来なければなりません。学校はですからすべての子が来られるよう条件整備をしておかなければならないのです。
 学校給食はそのような理念のもとに始められましたし、制服が長く存在価値を持っていることにもそうした意味もあります。弁当の中身によって生徒が無用な劣等感を持つことがないように、有名ブランドや高価なコートが買えなくても安心して学校に来られるように、そういった配慮が校則に盛り込まれているのです。

 その意味で、文科省が児童生徒の学校へのスマホの持ち込みを許容する方向で通達を出したのは、ですから痛恨でした。クラスの6割〜7割が学校に持ち込むようになったら、残りの子どもの保護者のほとんどは、何としても持たせてやろうという気になります。そんなもののために仲間外れにされては大変です。子どもの安全や心の成長を考えて持たせない方向で指導してきた家庭も、持ち込みの流れに抵抗することが難しくなります。
 しかし100年に1度起こるか起こらないかの大災害や、塾の行き来の便利を考えると、文科省も許さざるを得なかったのでしょう。まさか携帯会社の圧力とも思いませんが。

 以上が校則の三つの役割です。こんなふうに穏やかに話せば、どうということのない話です。しかし次の内容は、教員の方以外には素直に聞いてもらえないものかもしれません。


【副次的な、しかし重要な校則の機能=心のサイン発生装置】
 「服装の乱れは心の乱れ」という言葉は昔の教師によって好んで使われ、世間からは蛇蝎のごとく嫌われた言葉です。服装が乱れたからといって生活が乱れることはないというのです。

 正直に言って、私はそのときどきの最先端の不良ファッションに身を包んだ子どもは、勉強などそっちのけでそれにふさわしい場所へ行ってそれふさわしい活動をしてしまう、それが現実だと思うのですが、人々は容易に認めてくれません。それに元来この言葉には「服装が乱れると心が乱れる」という意味ではないのですから、敢えて戦うこともないでしょう。

「服装が乱れは心の乱れ」の本来の意味は、
「心が乱れると服装や外見に出やすいから、注意深くきちんと見ておきなさい。心配な子がいたらすぐに対応するのですよ」
という教育者への警句なのです。

 一般的に学業や部活動に熱中している生徒は服装のことなどにあまり気にしません。
 普通の生徒は校則に多少の不便や不合理を感じても、教師や親と対決し、同級生や世間の冷たい視線に耐えてまでそれと戦おうとしたりしません。子どもだって時間やエネルギーに限界があり、「校則」に挑戦することはけっこう面倒なことだからです。
 しかしそれにもかかわらず敢えて挑戦してくるような生徒には、それなりの理由があります。

 服装に異状が生じたり髪が赤くなってきたりしたとき、教師はとりあえずその生徒の心を怪しみます。この子は髪を染めることで何を表現しているのだろう、と。
 もしかしたら「勉強が分からなくなってきたよー」「身が入らないよー」と叫んでいるのかもしれません。あるいは「家に問題を抱えているよ―」「学校内で『その他大勢』になるのはイヤなんだよ」「悪い仲間に誘われてるよ―」、そんなふうに言っているのかもしれません。さらにあるいは「ボクを見ていて、じっと見ていて、ボクだけを大事にしていて」と叫んでいるのかもしれないのです。
 経験を積んだ熱心な教師なら、必ずそこになんらかの問題を発見し、対処・援助しなければならないと考えるでしょう。

 「子どものサインを見落とすな」という言い方がありますが、服装の乱れはまさにこの「サイン」なのです。同時に40人近い児童生徒を前にして、その気持ちの揺れを発見しようとすれば、サインの発信装置は多ければ多いほどいいのです。服装や髪型などに関する規定は、その中でももっとも有効なサイン発生装置なのだと教師たちは考えてきました。

 もちろん、だから校則をつくるというのではありません。付随的にそのような効能を持つということ、そしてこれがかなり有効な機能だというだけの話です。

 もっとも、ここまでの話では教員の茶髪やツーブロック、下着の色などに対する偏執とも見える情熱は理解できないでしょう。
 そこにはまた別の、けれど重要な要素があるのです。
(この稿、続く)

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