2021/3/3

「今日は『桜田門外の変』の日」〜若きテロリストたちの肖像@  歴史・歳時・記念日


 今日、3月3日は桜田門外の変の起こった日。
 約160年前の今朝、18名の武士が独裁者を倒すべく突入した。
 その現場も、その後の関係者の人生も凄惨を極めた。
 しかし彼らも、案外遠い人ではないかもしれない。

という話。
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(写真:フォトAC)

【桜田門外の変】 
 例年ひな祭りだの桃の節句だのと浮かれていてこちらを扱うことはなかったのですが、今日3月3日は桜田門外の起こった日だそうです。
 安政7年(1860年)3月3日午前9時ごろ、時の大老・井伊直弼は江戸城で開かれるひな祭りの祝賀に向かう途上、現在、警視庁のあるあたりで18名の暗殺者に惨殺されました。

 問題−井伊直弼を殺したのは誰か?

 答え―悪い直弼


 は社会科教師の鉄板ネタですが、実際の暗殺犯は水戸脱藩浪士と薩摩藩士(1名)の合同部隊でした。

 かたや直弼方は草履取りも含めると総勢60余名と3倍以上の人数でしたが、当日は雪模様で護衛の彦根藩士たちは刀を油紙で巻いた上に柄袋(つかぶくろ)に入れていたため応戦できず、あっという間に制圧されてしまったようです。
 直弼自身は暗殺者が一番初めに合図の意味もこめて撃った短銃の弾で重傷を負ってしまい、駕籠を離れて応戦することも逃げることもできずにいましたが、最後に守る者のなくなった駕籠に暗殺者たちが何度も刀を突き立てた上、瀕死の直弼を引きずり出して首級をはねたのです。
 両陣営に多数の死傷者を出した大立ち回りだったにもかかわらず、襲撃はごく短時間に終わり、現場からわずか400mほどしか離れていない彦根藩邸から人を出す余裕もありませんでした。


【ドラマにならないテロル】
 日本の重大なテロルはなぜか雪の中で起きます。赤穂浪士の討ち入りも2・26事件も大雪の中でした。
 桜田門外の変は大雪というわけではなく、襲撃の時刻には雨交じりでその後、陽も差してきたと言いますから雰囲気はだいぶ違いますが、真っ白な雪を真っ赤な血が染めた風景はやはり壮絶なものだったに違いありません。ある意味、象徴的に美しい場面とも言っていいでしょう。
 
 ところがこれだけの大事件だったにもかかわらず、桜田門外の変を暗殺者の側から描いた文学作品や映画・ドラマはほとんどなく、私たちは事件について深く知る機会を失っています(直弼の側から描いたものはある)。

 襲撃者18名のうちわずか2名が維新を越えて明治の時代に生き残っただけで、あとは現場で傷ついたりのちに刑死したりといった複雑さがドラマ化を妨げているのかもしれません。別な言い方をすれば、それぞれが違うドラマの主人公になり得るということでもあります。

 一方、彦根藩は当日の戦闘で8名の死者を出したのち、2年後、護衛としての役目を果たせなかったとして士分の者は責任を問われ、重症で生き残った8名は流刑、軽傷者5名は切腹、無傷の者5名は全員が斬首・家名断絶という厳しい処分を下されました。
 暗殺現場の凄惨さと合わせて、別な意味でドラマになりにくい事情があるのかもしれません。


【テロリスト予備軍】
 私は学生のころ、桜田門外の変と赤穂浪士事件、2・26事件についてかなり熱心に勉強しました。
 また、荒畑寒村の「ロシア革命運動の曙」に触発されて、サヴィンコフの「テロリスト群像」とかロープシン(サヴィンコフの別名)の「蒼ざめた馬」なども読み漁って、ロシア革命前段階のテロリストについても、かなり詳しいところがあります。
 時代は浅間山荘事件だとかテルアビブ空港事件、三菱重工爆破事件といった日本人によるテロルの盛んな時期でもありました。

 テロリストに同情的だったわけではありません。
 ただ、思いつめた若者たちがどういう過程を経てテロリストになっていくのか、そこに興味があったのです。一歩違えば、明日の自分だという思いもありました。

 もちろん今の私にそんな要素は微塵もありません。しかしネットの世界のあちこちを覗き見し、そこにフツフツと怒りを貯め、孤独を生きる若者の姿を見ると、この子たちに何か大義名分と仲間を与えれば、すぐに桜田門外の志士になってしまうことは容易に分かります。
 時代の様相を見誤ってはいけないと思うのは、こういうときです。

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