2021/2/19

「ゴールポストは動かさない」〜子どもの導き方のあれこれH  教育・学校・教師


 「感情で怒るな」の一番重要な意味は、
 その時その時の気分で怒り方を変えるなということだ。
 さまざまに対処法はあるが、
 やはりゴールポストを建てて、動かさない生き方を学ぶしかない。

という話。
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(写真:フォトAC)

【三つの訂正】
 訂正しなくてはならないことが三つあります。
《「友達親子」》
 その1は一昨日書いた「友だち親子は親がガキ」という内容です。考えてみれば精神年齢が近ければいいわけですから、子の方が大人に近づいても成り立ちます。

 思い起こせば娘のシーナの高校時代の友だちには、みんな自立的なきちんとした大人で、保護者、特に父親と仲が良かったように思います。進学校で勉強のできる子がほとんどでしたので、小さなころから対立することも少なかったのでしょう。親も自然と誉めることが多くなり、ぶつかり合うことも少なくて済みます。
 この国では学業成績の良い子はこういう点でも有利なのです。家族のためによく働く子が有利だという国もありますから、それを考えると必ずしも良いこととは言えませんが――。

 精神年齢が近ければ“友だち親子”になり易いかと言えばそうでもありません。互いに闘争心を燃やしたり嫉妬したりすれば仲良くなどなれません。普通の兄弟でも他人より仲の悪い場合もあります。

《大人の顔色をうかがう子》
 二つ目の訂正は、これも一昨日の「大人の顔色をうかがうような子には育てたくない」という話についてですが、この場合の「顔色をうかがう」は日本人に特有の「空気を読む」とか「人の心を慮る」とかいったこととは少し異なります。

 まるっきり関係のない話みたいですがつい2日ほど前、NHKのEテレで夫のDVに曝される妻の証言というのをやっていました。その中で驚いたのは、一番恐ろしかった言葉の暴力が「オイ!」だったという話です。「オイ!」と声をかけられてどう反応するのが正解なのかまるで分らない、それが恐ろしかったというのです。

 詳しい説明はなかったのですが、笑顔で返せば「何をニヤついているんだ」と怒り、目を伏せて静かに顔を向ければ「その辛気くさい顔は何だ!」と激怒する。表情を出さずにいれば「その仏頂面が頭に来るんだ!」――これではたまったものではありません。いずれ怒られるのだから何をしても同じに見えますが、怒り方にブレがあればどうしても正解を探したくなります。そうやって怯える姿が、まさに「大人の顔色をうかがう子」と同じなのです。

 小さなころ、なぜか甘えたくなってゴロニャンとネコみたいにもたれかかったらすぐに抱きしめて頭を撫でてくれた、ところが同じことを翌日やったら激しく拒絶された――その違いが十分理解できるものであればいいのですが、分からないまま繰り返されると「オドオドと大人の顔色をうかがう子」ができあがってしまいます。
 親からすれば自分がつくり上げた性格であることは重々承知でも、毎日そんな目で見られたら常に責められているみたいで気分の悪いことこの上ない、だからまた冷たくあたる――。

《「感情で怒るな」》
 第三の訂正は2週間がかりのこの物語の最初に出てきた「感情で怒るな」です。
 この言い方には“気持ちをむき出しにして大声で怒鳴り散らすな”という意味もありますが、実はむしろ少数派です。
 多数派の半分は、「罪と罰の対応が悪いじゃないか、そんなに怒鳴り散らすほどのことか」という意味でこの言葉を使います。多くは怒られた方が事の重大性に気づいていない場合で、ですからいったん事実に戻って、怒鳴り散らすに十分な理由があることを教えてやらなくてはなりません。きちんと話せばわかってもらえる場合もありますが、こちらの誤解ということもあるので注意する必要があるでしょう。
 しかしもっと多いのは、「ゴールポストを動かすな」という意味の「感情で怒るな」です。アイツとオレで何が違うのだ、昨日と今日でどう変わるのだ、単にオマエの感情で変わっているだけじゃないか、ということなのです。


【ゴールポストは動かさない】
 もちろん「アイツとオレ」「昨日と今日」で扱いが違うことに合理的な説明ができる場合もあります。
 教室内で備品が壊されたとき、一番公平なやり方は全員に向けて「誰かやったものは名乗り出ろ」とか「何か知っていることがあれば言ってきてくれ」と話して犯人が出てくるのを待つことです。しかしそれで問題が解決することは稀でしょう。
 名乗り出る気があるなら壊した時点で自分から言って来ます。誰も来ないということは犯人に頬かむりする決意があるということでしょう。
 そこで私は前にもふざけて物を壊したことのある生徒を呼び出し、事情を聴きます。呼び出された生徒は当然、「なんでオレを疑うんだ」という話になりますが、そんなときはこう言えばいいのです。
「どんな場合にもなあ、前科者は最初に疑われるんだ」
 これで案外、通ります。実は呼び出すのは誰でもよかったのです。子どもたちの情報網はものすごくしっかりしていて、教室でものが壊されたといった事件では多くの生徒が犯人を知っているのです。知っていながら誰も言わない――。だからひとりを釣り上げてそこを糸口にすればたいていの糸は引き切ることができます。その子が犯人でなくても、やった生徒を探して「オイ、オレが疑われているから、お前、行って白状して来いよ」と裏から手を回してくれるのです。

 扱いに差があるもう一つのケースは、怒りの蓄積です。
 国会議員のコロナ事態下での飲み会もそうですが、一人目より二人目、二人目より三人目の方が罪の重いのは当然です。火に油を注いではいけないからです。ひとつの授業の中でAが注意され、Bが注意され、Cが怒鳴られるのはそのためで、ですから精神のこうしたあり方については予め説明しておけばいいだけです。

 私は体を温度計に見立て、掌を上に向けて怒りの位置を示すようにしていました。しばらくすると注意された子どもの方から「先生、今、どれくらい怒っている?」と訊いて来たりします。私が黙って手刀を首の辺りにあてると、その時間は以後一切、怒らなければならないようなことは起きません。

 ただしそんなうまい方法がいつも見つかるとは限りません。基本は言うまでもなく「ゴールポストは動かさない」です。
 そのためには正しい位置にゴールポストをしっかり建て、常にその場所を意識して安易に移動したりしないようにしなくてはなりません。

【見習うべき人たち】
 脳みそまで筋肉でできていると言われる体育科の先生、私が音楽室の専制(先生)君主と呼ぶ音楽科の先生、この人たちの優れたところは、そのまったく揺らがない価値基準です。「ダメなものはダメ、いいものはいい」で、非常にはっきりしています。
 反ポピュリズムの信念の人ですから少しぐらいのことでは生徒の意見に耳を貸しません。それでいて、クラスの子どもたちは明るく屈託がないのです。外枠がはっきりしていて逆鱗の位置が良く分かっているので、そこさえ触れなければあとはまったく自由なのです。オドオドと顔色をうかがう必要もありません。
 家庭でも分からず屋や頑固おやじの家から、しばしば柔軟性あふれる子どもが育つのもそのためです。

 私は教師としても父親としてもそのような人ではなく、だからずっと苦労し続けでしたが少しでも体育科的・音楽科的な枠の概念を持とうと努力は怠りませんでした。
 しかしそれは私のような性質の人間が行うべきことで、本来が体育科的・音楽科的信念の人はこれを読んで意を強くしてはいけません。あなたたちが見習うべきは社会科的・国語科的な、何でも子どもたちの話を聞いてしまう受容の精神です。それでようやくバランスが取れます。

(この稿、終了)

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