2021/2/12

「指導教科別、この先生のクラスが荒れない(下)」〜子どもの導き方のあれこれC  教育・学校・教師


 極端に授業時数の少ない美術科・技術家庭科は少ない時間を全力で使う。
 数学科・理科・英語科の教師たちもそれぞれのやり方で学級を統制する。
 国語科と社会科は――、
 彼らは自由で広範な発言を求める。しかしそれが自らの首を絞めるときがある。

という話。
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(写真:フォトAC)

【美術科・技術家庭科:少ない時間に全力で】
 私は美術科の先生にこんなふうに言われたことがあります。
「Tさん(私のこと)なんか社会科だからいいよな。週4時間も授業があるわけで、何か問題があったら自分の社会科を潰してでもずっと学級会をやっていればいい。オレたちなんてたったの2時間、しかも週に1回だけだぜ」
 今はカリキュラム管理が厳しくなって教科を勝手に学級会に振り替えたりすることも少なくなりましたが、昔はかなり自由だったのです。
 
 当時(40年近く前)の私は社会科で4時間、道徳と特別活動で1時間ずつ自分のクラスを担任していました。ですから土曜日の半日日課を含めてほぼ毎日、生徒と1時間以上の対話ができたわけです(総合的な学習の時間はまだありませんでした)。しかし美術や技術家庭科の先生は週4時間、日数にして3日しか生徒と向かい合う機会がなかったのです。

「下手をすると一日一回も生徒と、面と向かって話をすることなく終わってしまう、そんな日がある。だから朝の会と週一回の道徳の授業がすべてなのだ。そこでしか学級は作れない。
 え? 帰りの会? あんなもんはダメだな。生徒の頭の中は部活でいっぱいで話なんか聞いちゃいない。やはり朝の清々しい頭に、いい話を入れてやるしかない」
 だから毎朝、飛びっ切りいい話をしてあげなさい、と。
――以来、私は学級担任を続けた19年間、3800日あまりを、毎朝“いい話”をすることに心がけ、道徳の授業にも熱心に取り組むようになりました。毎日話をすることは、今のこのブログにつながっています。

 美術科や技術家庭科の先生方の学級への取り組みは、常にこの「少ない時間に全力で」で、非常に意図的・計画的なものであったと私は感じています。素晴らしい先生がたくさんおられました。


【数学科・理科・英語科】
 数学科・理科・英語科。この三つについて、教科の性格と学級経営の手法にどういう関連があるか――それについては少々語る自信がありません。ただ数学と理科の先生は、生徒を自由に遊ばせているように見せて、実はある枠の中でしか遊ばせないといった印象を持っています。
「答えにたどりつく道は限りなくある、しかし答えはひとつだ」という感じです。

 ゴールがしっかり見えていますから、道を外れても外しっぱなしにしません。いつ、どういうタイミングで介入すれば無事ゴールできるかよくわかっているので、子どもを放置するように見せて話し合いでは的確に口を挟んできます。教育の世界ではこれを「支援の手を入れる」とい言います。
 数学科には文科系的素養に溢れた人が多く、理科の先生は閉鎖的で頑固という印象がありますが、それも学級とどういう関係があるか、いつか考えてみたいと思います。

 英語科の先生についてはさらに言葉がありません。開放的で明るい先生が多く、すぐに生徒と友だちに近い関係になってしまいます。それでいて子どもに振り回されるわけではないところが謎でした。中には学園ドラマを地で行くような先生もおられましたが、私なんぞが真似をしたら絶対に足元を掬われます。実際に生徒と友だちのようになろうとして失敗した教師も何人も見てきましたから。
 英語科には英語科の特殊な魔法があるのです。その表面だけを見て“これで行こう”などと決して考えてはいけません。 
 

【最も難しい国語科・社会科】 
 社会科の先生たちが担任するクラスには落ち着かないところが多かったように思います。私自身も社会科ですが、それが「教科別、この先生のクラスが荒れない」を考えるきっかけとなりました。研究室の中に必ず一人は、クラスが荒れて苦労している先生がいたのです。隣の国語科研究室も――。

 国語と社会は多様性の学問のもとにあります。地理学も歴史学も政治学・経済学も文学・言語学も、答えがひとつということはありません。政治学や経済学はいちおう社会科学と「科学」の名を冠していますが、数学の証明や理科の実験のように「誰がやっても答えが同じ」というわけにはいかないのです。

 したがって社会科や国語科の授業は意見を自由にたくさん出させるところから始まります。たくさん出させて話し合わせ、マトはずれなものや明らかに違っているものを除いた「残りの総和が答え」というのが一般的なのです。
「この時の主人公の気持ちはどうだったのだろう」
「江戸幕府はなぜ270年間も続いたのだろう」
の最終的な着地点はそんなふうに決まります。答えは複数です。

 しかし現実の、具体的でなおかつ全員が利害関係者である学級の問題について、この方式を安易に導入するととんでもないことになります。
 例えば、クラスに「いじめ」があったとして、いきなり話し合いにかけて自由な討論をさせれば、「(いじめられている)本人が態度を改めればいい」などといった発言がすぐに出てきてしまいます。そこから話し合いが始まると通常の時間内には収まりませんし、最悪の場合は被害者の吊るし上げになってしまいます。
 あるいは、「特定の教科の授業が落ち着かずにうまくいかない」といったことを話し合わせて、「先生がもっと分かりやすい授業をやってくれればいい」といった意見が出てきたとき、担任はどうしたらよいのか。
 もちろんこれは極端な例で、実際にそうなる可能性はそれほど多いわけではありません。しかし「子どもの意見を十分に聞く」「自由な発言の場を補償する」などを教育の柱にする先生たちは、よほど注意してかからないとこうした「自由の罠」にかかることがあります。

 良く管理された肥えた土地には良い作物が育ちますが、汚染され放置された土地にタネを蒔いても、育つのは実のない作物か毒を持った作物だけです。

 最も自由を大切にする国語科や社会科の先生は、音楽家や体育科の「けれど最後の答えは私が持っている」指導とは微妙に異なります。そのわずかなズレの積み重ねが、結局クラスの色として出てくるのです。

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