2021/1/29

「なんでもハイハイと先生の言う通りにできる子の話」〜何とも言えない未来への不安A  教育・学校・教師


 合理化が進み、時短が図られ、技術革新が進展するたびに忙しくなる社会。
 そんな社会に向かって、これから成長していこうとする子どもたちは今、
 どんな教育を受けてどんなふうに育っているのだろう?
 そんなことをふと考えた

という話。
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(写真:フォトAC)

【公教育が何のためにあるのか分からなくなった日】
 教員になるまで、公教育は国民の平等を守るためのものだと思っていました。
 貧しい者が貧しさゆえに勉強ができず、読み・書き・計算ができないまま大人になってしまう、するとロクな仕事に就けず、高収入も望めないので貧乏が再生産される。貧しい家はずっと貧しいまま、豊かな家の子は教育をしっかりと受けてまた金持ちになっていく。それではいけない、というわけです。

 ところが初任で中学校の教師になり、しばらくすると奇妙なことに気づいたのです。
 中学校では、子どもはちっとも平等になっていないのです。

 典型的な例が英語です。
 当時は小学校英語もなければ英会話塾に通っている子もほとんどいませんから、全員が英語に関して無知な状態で中学校に入学してきます。無知で出発点が一緒なのです。ところがわずか半年後、二学期の中間テストが終わる10月ごろになると、およそ半数が遅れ始めます。
 そこを乗り切った子たちの大部分は1年くらいもつのですが、2年生の2学期半ばでまた半数が落ち、半数の半数、つまり全体の四分の一だけが曲がりなりにも「英語が分かっている」状態で、中学校3年生の終わりにたどり着くのです。

 私が観察していられるのはそこまでですが、さらにそこから三年間、高校を卒業する時点で英語科教師に及第点を与えてもらえる子は、どのくらい残っているのでしょう? 私は高校1年生の終わりあたりで置いて行かれ、二度と先頭の集団に追いつくことはありませんでした。気がつくと先頭の子は臆することなく外国人としゃべっていました。
 これが国民の平等を守る教育のあるべき姿なのでしょうか?


【『結局は能力の差』という身もふたもない話】
 「自分の不勉強を棚に上げて何を言うのだ」と言われれば一応黙ります。しかし黙っているだけで素直になっているわけではありません。

 大人になってから気付いたのですが、どうやら大した努力をしなくても英語が身についてしまう人はいるのです。中学校時代から半世紀以上のつき合いになる友人のYなどは、いまでも街ですれ違った初老の男性の顔の中に、50年以上前の同窓生を発見し、
「ホラ、隣のクラスの○○、2年生の冬のバスケットボールクラスマッチで勢い余って素手で窓ガラスを割って大けがをしたやつ」
とか平気で言います。Yの言うことですからおそらく間違ってないと思うですが、私はその話のどこにも記憶がないのです。○○という生徒がいたことも、それが隣のクラスだったことも、手から血しぶきがシャワーのように噴出したという鮮烈な光景も。
 Yとは記憶力に決定的な差がある――そして私は少しだけ自分に優しくもなれるのです。

「ああ、あんな恐ろしい記憶力をもったヤツと同じ高校に入学したのだから、オレもなかなか頑張ったのだ」
 おそらく私は彼の何倍も英語の勉強したのです。そしてなんとかYと同じ位置に立つことができた、立派なものではないですか。

 英語というのは個人の能力によるところの大きな科目です。私の知っている英語科教師はすべて記憶力の高い人たちでした。初任校の若い先生などは1200人もいた生徒のすべての名前とクラスと兄弟関係と、部活を言うことができました。
「しょっちゅう名簿や写真を見ていますからね」
と謙遜しますが、見て覚えられるから見る気になるのであって、私などは同じ生徒を何度も確認しているうちにすっかり嫌になって諦めてしまいました。


【いちおう納得、しかしまたわからなくなった日】
 基本的人権を守るための公教育というのはおそらく小学校までの話です。さらに重ねて3年間の中学校過程を行うのは社会人としての適性を明らかにするためで、その意味では「諦める教科」が出てくるのは当然なのかもしれません。
 あるいは小学校6年間に3年の付録がつくのは、「それだけ余計に勉強すれば、小学校6年間分の内容はほぼ完ぺきに身につくだろう」といった配慮があってのことかもしれません。どちらにしても中学校の3年間は必要な教育課程と言えます。

 中学校の教員を10年もやって、ようやくたどり着いたのはそういう結論でした。
「中学校は大人になるための学校。だからそれぞれが違った存在になるのは当たり前」
 そう考えて心を落ち着かせたのです。
 ところが1980年代になって「新学力観」が提唱され、20世紀の最後の年に総合的な学習の時間が始まったあたりから、またわからなくなってきたのです。


【新学力観と「なんでもハイハイと先生の言う通りにできる子」】
 新学力観というのは「『旧来の学力観が知識や技能を中心にしていた』として、それに代えて学習過程や変化への対応力の育成などを重視しようと考える学力観」(Wikipedia)のことです。
 80年代にささやかれるようになり、87年の教育課程審議会答申で提起され、89年改定の学習指導要領に採用された考え方で、その後、小学校1〜2年生の生活科や総合的な学習の時間などの中に生かされました。
 「ゆとり教育」は子どもたちをゆっくり休ませるのが目的だったように思われがちですが、元々は生み出された多くの時間で、創造的な力をつけさせようとするものでした。ひとことで言ってしまうと、
「『なんでもハイハイと先生言う通りにしているようでは21世紀の(グローバル)社会は生きていけない』と信じる人たちの考える教育」
が目指されたのです。
 しかしそれは現場の教師にとってはたいへんな衝撃でした。なぜなら、
「なんでもハイハイと先生言う通りにしている」生徒なんて、教室内にほとんどいなかったからです。
 
 挨拶をしましょう、清掃は丁寧に、友だちには思いやりを持ちましょう−―何でもいいのですが、私たちが身に着けさせようとしていることに関して「なんでもその通りできる子」って、ものすごく優秀な子じゃないですか。
 教科について言えば、数学でも英語でも「なんでも先生の言う通りできる」子は「テストで満点を取ってしまう子」です。
 確かに、そんな天才児がいつまでも教師の指示通りに動いているようでは困ります。しかしたいていの子は「先生の言う通り」にできないから苦労しているのです。

 しかしともあれ生活科も総合的な学習の時間も、始まってしまった以上は教師も児童生徒も頑張るしかありませんでした。そしてそこに新たな課題も見えてきたのです。

(この稿、続く)

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