2020/10/13

「『みんな違ってみんないい』が『何でもいい』わけではない」〜君たちが理解できないことA  教育・学校・教師


 道徳やマナーの基本は「その行為は美しいかどうか」だ。
 トリキの錬金術師たちはその基準で自分を見ることができない。
 美しいこと・よいことは、それくらい学ぶことが難しい。
 まあしかし、ガキのやることだ、少しは大目にみてやろう。
という話。
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(写真:パブリックドメインQ)

【「みんな違ってみんないい」世界】
 世の中にはしっかり勉強しなくても身につくものと、構えて努力しないと身につかないものとの両方があります。
 日本に生まれて日本で育てば、日本語の日常会話は苦労せずとも身につきます。同じように子どもにとって、若者向けのファッションだとか音楽だとかは、同世代と普通につき合っていればかなりの学習ができるはずです。

 しかし古文や漢文の読み方・味わい方だとか、方程式の解き方だとか、あるいは薬品の反応だとかは、よほど特殊な環境で育たない限り自然と身につくものではありません。だから学校で学ぶことになります。

 その中にあって特に難しいのが芸術に関する教育です。なにしろ数学や理科のような科学の世界は「誰がやっても結果は同じ」ですから核になる部分を教えれば演繹的に知識や技能を広げていくことができます。ところが芸術の世界は「みんな違ってみんないい」のです。そもそも違っていなくてはなりません。
 しかも「みんな違ってみんないい」にもかかわらず「何でもいい」わけではないのです。


【美を学ぶことはかくも難しい】
 ダビンチもルーベンスもベラスケスも、モネもピカソも草間彌生もみんな違ってみんないい、しかし私が油絵を描いても、ダビンチやモネと並んで「みんないい」にはならないのです。そこで私が、
「オレとピカソで何が違うんじゃ!」
と叫んでも、おそらく私に理解できるよう説明してくれる人はいません。構図がどうの色彩がこうの、独創性がナンチャラとか言われても私に知識がないから聞いても分からないのです。
 たぶん一番親切な助言は、
「一流の絵画の本物をもっとたくさん観て、一枚でも多くの絵を、何枚も何枚も、何百枚でも描いてごらん。10年も勉強すればきっとわかるようになるよ」
です。

 音楽も同じです。
 私は学校で習ったブラームスやドボルザークが好きでした。それほど熱心なクラシック・ファンでもないのですが、大人になってからはプロコフィエフやリムスキー・コルサコフ、ラフマニノフなどを好んで聴きました。しかしモーツァルトがわからない。もちろん悪くはないのですが、モーツァルトには信者といっていいような熱狂的なファンがいて、その熱量が理解できないです。
 そこで14年前、モーツアルト生誕250年記念のブームに乗って1年余りモーツアルトを集中的に聴くようにしました。すると何となくわかってくるような気がしてくるのです。私は信者にならないがその熱狂は理解できると、そんなふうに思えてきたのです。

 もうひとつ例をあげましょう。
 私には生け花には何の造詣もなく、興味の欠けらもありません。しかしテレビを見ているとたまに素人の生け花を師範が直すといった場面に出会うことがあります。確かにプロが手直しすると格段に良くなってその違いは一目瞭然なのですが、私は直す前の、素人の段階ですでに感心したりしているのです。
 何の経験もない人とはいえ一生懸命考えて生けたものですから、救いようなく悪いわけでありません。そこそこに美しくつくってあるので、どこをどう手直ししたらいいのか、まったく分からないのです。
 もちろんこれだって10年もしっかり勉強すれば理解できるようになるはずです。


【学校の教えていること】
 美しいということを理解するのはかくも大変なのです。
 もちろん環境が整っていれば自然に身につくものもありますが、そうでなければ勉強するしかありません。美術や音楽の時間とならんで学校に特別な教科「道徳」があるのはそのためです。学校教育を通じて、人間の「行為の美しさ」というものが何かを学ぶのです。

 そして音楽の時間に歌ったり美術の時間に絵を描いたりするように、実際に活動することで理解を深め、知識技能を高めます。

 児童生徒は朝から晩まで一日中、小学校1年生から中学3年生まで9年間、当番活動や係活動、児童生徒会活動、運動会・文化祭といった学校行事、遠足・修学旅行といった旅行行事などを通して、「自主,自律,自由と責任」とか「節度,節制」とか、あるいは「礼儀」「友情,信頼」「遵法精神,公徳心」「「公正,公平,社会正義」など(いずれも道徳の目標)を学んでいるのです。
 しかしそれでも学校で学べるのは「道徳」や「モラル」のごく一部です。


【己の卑しさ、醜さ、愚かさが見えていない者への再教育】
 トリキの錬金術を賞賛し自分も真似しようと考えるバカ者に見えていないのは、わずか173円(昼食)、わずか673円(夕食)のために一皿しか注文しないで店を出ていく自分の卑しさ・醜さです。本当に貧しくて「背に腹は代えられない」ということであれば致し方ありませんが、その場合は背を丸めて小さくなっていなくてはなりません。

 SNSに投稿して勝ち誇るなど、卑しいだけでなく愚かでさえあると、そんなこともその子には理解できていません。昨日の引用にもあったような軽い「ゲーム感覚」かもしれませんが、ゲーム感覚でできるところが、まだまだガキなのです。

 もっとも孔子ですら「70歳になってからは、考えずとも不道徳な行いをしないで済むようになった(七十而從心所欲、不踰矩)」というのですから、年少者にあっては仕方のないことなのかも知れません。
 真面目で小心者だった私でさえ、二十歳代まではけっこうムチャをやっていましたから。

 アホなトリキの錬金術師たちも、遅まきながら教育を施していくだけです。


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