2020/6/30

「パリの空の下、糞尿は流れる」〜ベルサイユ宮殿とふんどし@  政治・社会・文化


 かつてのパリは王宮も街も糞尿だらけだった。
 人々は糞尿を避けて歩き、
 糞尿から身を守るためにさまざまなものを発明した。
 しかしそれは道徳心の問題ではない。
 要するに、それでよかっただけのことだ。

というお話。
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(「ベルサイユ宮殿」フォトACより)

【ベルサイユの壺】
 ベルサイユ宮殿にはトイレはなかったという話はあまりにも有名です。しかし実はあった、数は少ないがあることはあったという話も同じくらい有名でしょう。より正確に言えば、王の部屋の近くには個室のトイレがあって立派な椅子式便器が置かれており、宮殿内のあちこちには273個もの移動式便器があったというのです。現在のポータブルトイレとよく似たもので、衝立の陰などに置いて使ったもののようです。

 ただし常時1000人もの王侯貴族と4000人もの召使たちが出入りしていましたから、場合によっては足りず、そこで活躍したのがポットみたいなオマルでした。その数2000個といいます。

 なるほどとも思うのですが、こうした話は鵜呑みにしてはいけないのであって、5000人が出入りする宮殿に移動式便器とオマルで計2273個はやはり多すぎるのです。移動式は王族専用、オマルは貴族や召使たちのものと、そんな区分けでもあったのかもしれません。あるいはそもそも、男たちは外に行ってやって来ればいいのですからオマルすらいらないのです。そんなふうに考えていくと、特別な場合(例えば男性の“大”の場合)を除いて、移動式やオマルは基本的に女性が使用するものだったのかもしれません。

 しかし衝立があるとはいっても個室のない場所で、女性はどうやって用を足したのでしょう?
 そこで活躍するのが、あのバカみたいに大きく広がったスカートです。フープスカートというようです。中にフープ(輪っこ)を重ねた提灯の骨のみたいな構造物が入っていて、裾からオマルを入れてそのまましゃがむと、うまく折りたためる仕組みになっているのです。用が済んだらオマルを召使に渡して終わりです。

 召使はそれをどうするのかというと(移動式便器の中身も同じなのですが)、宮殿の庭に持って行って、適当なところにポイ捨てしたのです。前述のとおり男性は最初からそこに行って用を足していますから、着地点は一緒です。しかし(ここからが眉に唾をつけて聞くところなのですが)召使が不良だと庭に行くのも面倒くさがって廊下の隅に捨ててしまう。男性貴族や男性の召使も不良だと廊下の隅でやってしまう。そこで当時のベルサイユ宮殿はものすごく臭かったという話が出てくるのです。


【パリの空の下、糞尿は流れる】
 王宮ですらその有様ですから庶民となるとさらにひどい状況です。
 トイレなんかなくてオマルでの用足しは同じですが、庶民の場合それを2階の部屋から道路に投げ落とすのです。いきなり投げ捨てて直接ひとにあたってはいけないので「捨てます!」とか「水に注意!」とか言ったらしいのですが、その声が聞こえると道を歩いていた人たちは一斉に道路中央から飛びのかなくてはなりません。当時の民家の二階は歩道部分に張り出していましたから、その下に潜り込むと比較的安全だったのです。

 さらに商店――特にレストランなど食べ物関係のお店は軒先にサンルーフを出して防御、女性は日傘をさして街を歩きました。シルクハットだのマントだのもみんな汚物から身を守るための道具だったという説もあるくらいです。そしてこの件に関する最大の発明品は、ハイヒールだと言えるでしょう。

 できるだけ汚物に触れる面を少なくして靴を汚さず、家に糞尿を持ち込まないようにしたい――そういった願いから、まず男性が踵を高くし始めました。それをファッションとして王や貴族が真似し、やがて女性の元へ降りてきたのです。よくわかる話です。

 かつてのパリは、王宮も街も糞尿で満ち満ちていました。しかしそれではあまりにも不衛生だろうという話になるのですが、東京あたりで同じことをやれば不衛生でも、パリではそうではないかもしれないのです。気候が違うからです。


【フランスでは人間そのものが匂う】
 パリと東京を比べると夏の湿度(一般に使われている相対湿度)はさほど変わりないように見えます。しかしそれはパリの方が平均気温で5度あまり低いためで、絶対湿度(空気中に含まれる水分量)は東京に比べてずっと低く、さわやかな感じになります。東京のむっとした夏とは違って、かなり乾燥して過ごしやすいのです。
 これを糞尿レベルで言うと、放置してもすぐに乾いてしまい、風に吹かれてどこかへ消えてしまうということです。だからさほど不衛生でもない、そんなに気にすることもない。

 人間の話に戻すと、だから汗もあまりかきません。土やほこりが体に張り付くこともなく体も汚れない、だから風呂に入らない、とつながっていきます。

 パリはもともと水不足の町ですから簡単に水浴びとか風呂に入るとかいうわけにはいきませんでした。現在でもパリ市内で部屋を借りようとすると、一般人に手の届くアパートには風呂がない。基本的にシャワーだけで、温水タンクも小さいので二人以上が使うと2番目の途中から水になってしまうといいます。
 しかもそのシャワーを、フランス人男性の3人にひとり、女性の5人にひとりが週に1〜2回しか浴びないのです。それで一向にかまわない、気持ちも悪くありません。
 ただ、汗はかかないといってもまるっきりかかないわけではないので次第に体が匂い始めます。だからフランスでは香水が発達した、というのがこの話のオチです。

 フランス、フランスと言ってきましたがヨーロッパの街はどこも同じで、本格的に下水道をつくり汚水処理を始めるのは、産業革命で都市に大量の人間が流れ込んでもはや糞尿で街が埋め尽くされた1850年代以降のことでした。


【私もフランス人並みに汚かった】
 もっとも私には「フランス人は汚い、日本人はきれい」と偉そうに言えない事情があります。それは私自身が子どものころ、夏でも風呂は週2回、冬だと1週間に1回ないしは10日に1回しか行かなかったからです。
 パリ生まれではありませんが、内陸で夏でも湿気の少ない土地で生まれ育ちましたから、高校を卒業して東京で暮らすようになるまで、汗びっしょりになる経験がなかったのです。汗さえかかなければ体が汚れることも臭くなることもずっと少ないのです。

 小学校2年生のときにようやく家にテレビが入り、東京のホームドラマを見るようになりました。そこではびっくりすることがたくさんあったのですが、そのうちのひとつがサラリーマンの夫が帰宅したときに妻のかける言葉です。
「夕食とお風呂、どっちを先にします?」

 夕食と入浴が同じ頻度(つまり毎日)であるということに驚き、家に風呂があるということでまたびっくり。それ以来、東京は憧れの街になりましたが、実際に住むようになると湿気という点ではとんでもない街でした。

(この稿、続く)


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