2019/11/1

「学校に欠けていたもの、メディアに欠けたもの」〜”東須磨小、教員いじめ事件”D  教育・学校・教師


 事件の真の姿は やはり裁判の場に出されないとわからない
 しかしこれは起こるべくして起こった事件だとも言える
 東須磨小に欠けていたものは何か
 そしてマスメディアがすべきでなかったことは何か

という話。
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(「シルエットA_01」PhotoACより)

【総括】
 事件は結局、マスメディアが扱ったほど大きな問題ではなく、しかし「悪ふざけが過ぎる」という同僚の告発もあったことから被害教員の妄想とも言えない、その中間レベルのものだったと私は考えています。

 4人の加害教員による人間関係の読み違い、管理職の対応の遅れ、さらに被害教員の未熟、ということもあったのかもしれません。
 子どもの“いじめ”と大人のハラスメントを同じように扱う市教委の硬直した対応、面白おかしく伝えたがるマスメディアの扱い、そうしたものも複合的に事件を実体とかけ離れたものにしてしまいました。

 そろそろ報道ネタも尽きてきたようでテレビでの扱いも少なくなってきました。すでに10月11日に被害届が出されているといいますから、これ以上は警察や検察の判断を待ってから考えるのもいいでしょう。ぜひとも示談などというあいまいなことにならないよう祈ります。

 もっとも神戸市は休職せざるをえなかった現在の給与についても支払わない方向で条例を改正しようとしていますから、このまま懲戒免職となり、退職金も支払われず、教員免許も取り消されて年金も減額ということになれば、加害教員もまた裁判所の判断を求めざるを得なくなります。その場合も審理の過程で事実関係が白日の下にさらされることになります。ですからあいまいなまま終わらない可能性はけっこう高いのかもしれません。

 加害教員は社会的にはすでに十分罰せられています。いまさら失うものもありませんから、事実の解明のため、ぜひとも公の場で多くを話してもらいたいものです。


【事件の遠因】
 今回の事件は東須磨小に限られたものではなく、教員社会ではありがちなこととして一部で報道されています。「職員室カースト」といったいかにも世間が飛びつきそうな用語を使って説明しようとする試みもいくつかありますが、実際の学校はそんなふうになっていません。

 個々の教員がカーストを構築してその頂点に立ち、他の教師を支配しようとする――それには彼らはあまりにも忙しすぎます。そんな暇があるなら事務処理の一つも先にやって家に帰った方がいい、そう考える教員が大半です。もちろん東須磨小の加害教員たちだって(中核的教員ですから)忙しかった。それなのになぜ、彼らだけがつまらない罠にはまってつまらない言動に走ってしまったのか。

 ここで私が注目するのは、
「『いびつな人間関係の土壌を管理職がつくっていた』。東須磨小勤務経験者はそう指摘する。例えば互いの呼び方だ。通常、校内では年齢に関係なく『○○先生』と呼び合う。しかし、前校長は同僚の一部を呼び捨てにした。さらに加害教員の一人は、先輩をも呼び捨てにした」
という証言です。(2019/10/25 神戸新聞NEXT 緊急報告 東須磨小教員暴行【上】職場環境


【教師が互いを先生と呼ぶわけ】
 教員が互いを「先生」と呼び合うことに関して、「本来は師弟関係における呼称であって教員同士が呼び合うのはおかしい」といった意見があります。また「あれは小さな子どもの親が、互いを『お父さん』『お母さん』と呼んで子どもの混乱を防ぐのと同じ目的だから、『先生』と呼び合うのは小学生低学年までとして、それ以上ではやめるべきだ」といった言い方もあります。しかしそれも違います。

 教員が互いを「先生」と呼び合うのは、そこに「我以外皆我師(われ以外、皆、わが師)」という思想があるからなのです。学問の場とはそういうものです。

 古くは長期の留学で密教を極めた無名の空海のもとに、年長でしかもすでに名声を確立していた最澄が教えを乞いに行ったように、学問の世界にはすべての人から学ぼうという基本的姿勢があります。
 たとえ相手が新米の教師であっても、20年、30年のベテランから「先生」と呼ばれるのはそのためで、あるいは日ごろ良く知る「近所のおっちゃん」でも、講師として学校に来ていただく場合は「先生」と呼ばなければならないのも同じです。誰かが学ぼうとすれば、そこに必ず師は現れます。

 これはとても大事な習慣で、誰かを「先生」と呼んだ瞬間から次の言葉や態度には尊敬や敬意の気持ちが加わってきます。「先生」のあとには「バカ」も「ボケ」も付きにくいのです(だから不良少年は「先生」とは言わず「先公」と言う)。

 私たちは授業を始める前に、児童生徒と向かい合って互いに「お願いします」と言って頭を下げます。
 教師もまた子どもたちから学び、そうした場を与えてくれた学問の神様――「悪法も法なり」と言って毒杯をあおったプラトンや「私の円を崩すな」と叫んでローマ兵に殺されたアルキメデスを始めとする学問のために命をささげた人々――に感謝の気持ちを伝えるのです。
 学校にはそうした互いに尊敬しあう仕組みがたくさんあります。それを通して私たちは学びあっているのです。

 先に挙げた東須磨小の勤務経験者の証言が正しいとすると、前校長の残したものは恐ろしいほど大きかったと言えます。鍋蓋社会でただでも平等意識の高い人間関係を、遠慮会釈のない修羅場にしてしまったのですから。
 そこには学問の雰囲気はなく、忍耐もありません。事件が起こるわけです。

(参考)
2005/10/4「教員同士が『先生』と呼び合うこと」 
2005/6/20「学校のアカデミズム」


【メディアは何をしたのか】
 最後に、マスメディアが今回の事件に関して果たした役割について、簡単に指摘しておきます。

 ひとつは、先ほど挙げた「職員室カースト」といった概念や、これまでたびたび出てきた“お局様”“女帝”といった表現の問題です。中でも今回の事件を「教員いじめ」としたことには大きな問題があると考えます。

 市教委も現校長も記者会見で「ハラスメント」という言葉を使っていたにもかかわらず、マスメディアは「いじめ」を好んで使いました。これによって事態は非常にあいまいになったと言えます。
 せっかく今年の5月に改正された「労働施策総合推進法の改正法(通称、パワハラ防止法)」があるのですからその規定の中で考えるべきでした。
 このパワハラ防止法で定義される「パワー・ハラスメント」は、
「(1)優越的な関係を背景とした言動、(2)業務上必要かつ相当な範囲を超えたもの、(3)労働者の就業環境が害されるもの、の3つ全てを満たすもの」
となっています。本件に照らし合わせると、それだけで事態は違ったものに見えてきます。

 もうひとつ。
 昨日のニュースで、東須磨小でもようやく給食にカレーが供されるようになったと伝えています(事件のために食べられなくなった児童には別メニューで対応)。「#(ハッシュタグ)カレーに罪はない」の話です。

 では誰に罪があったのか――。
 子どもたちは10月上旬の一時期、毎日のように自分の学校の先生が激辛カレーを食べさせられる場面を見せられていました。誰が見せたのか。
 私にはそれがいいことだとは思えません。

                       (この稿、終了)



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