2019/3/20

「担任教師の『最後の授業』」〜卒業式のあとで語っておくべきことがある  教育・学校・教師


 まだ自分を制御することに力の不十分な子どもたちを
 強い力で揺り動かさなくてはならないときがある
 卒業式が終わって戻っていた教室で
 保護者も交えて担任が行う「最後の授業」
 そこで語るべき大事な話があるはずだ

というお話。

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【怒鳴られる快感】
 2019年1月〜3月期、連続ドラマ平均視聴率ベスト5のうちの1位、2位、4位は『3年A組―今から皆さんは、人質です―』(日本テレビ系)、『家売るオンナの逆襲』(日本テレビ系)、『ハケン占い師アタル』(テレビ朝日系)でした。それにドラマでもないし今期でもないのですが「チコちゃんに叱られる」(NHK)を加えて、これら全部における共通点は何でしょう?

 答え=主人公またはMCが出演者を怒鳴りまくる。

 「3年A組〜」に関しては先月14日、「私たちは今もこういう教師を望んでいる(かもしれない)」というタイトルで記事にしましたが、これだけ多くの怒鳴られ番組が人気の上位に挙がってくるとなると、もしかしたら本当に私たちは怒鳴られることを望んでいるのかもしれないと思えてきたりします。

 もちろん理不尽に怒鳴られるのはかないません。
 しかし道理にかなうことや正しいことだったら、押し付けられるのもやぶさかでないという時があります。特に若いときはそうです。


【自由からの逃走・束縛からの解放】
 理由はふたつです。
 ひとつは現在の私たちの状況――情報過多でどんなものにでもアクセスでき、自由に選択してもよいが実際には一つしか選ぶことができず、しかも選んだことの責任(選ばなかった責任)は自分一人で負わなければならないという過酷な状況を切り抜ける場合です。

 私は若いころ自分が才能にあふれた天才的な人間だと思っていました。ですからかえって何も選べない。捨てるものが多すぎて未練が断ちきれないのです。そんなとき、神様でも悪魔でも何でもいいから圧倒的な権力が降りて来て、強制的に道を示してくれたらどんなに楽かと本気で思っていたのです。
 権力が示したその道が間違っていてもかまわないのです。そうなったら神様なり悪魔なりを恨んでいればいいだけのことですから。
 自分で決めてその選択の過ちを、自分の責任で取らされるのはまっぴらです。
「もうどうでもいいから誰か決めてくれ!」
 そう言いたくなる時は何度もあったのです。

 もうひとつの理由は、私たちが自分の意思だけでは生きられないようにできているからです。人間は関係性の生き物ですから他人の思惑から自由でいられません。

 例えば不良グループのリーダーは「こんなことをしていたらダメだ」と気づいても簡単に降りることはできません。たくさんの友だちを悪の道に引きずり込んでおいて自分一人がいい子になるのは難しいのです。

 イジメにしろ万引きにしろ、「みんながやっているからといって自分もやっていいということにはならない。ダメなことはダメなんだ」と説得されることは少なくありません。しかしそんなことは百も承知なのです。分かっていながら止めることができない、そういうことがあります。
“みんな”に逆らって、あるいは“みんな”から遠ざかって、ひとり生きることはそんなに簡単なことではありません。そんなとき、圧倒的な力を持った権力が目の前に現れて強引に道を曲げてくれると本当にありがたいのです。

 たびたび申し上げていますが、中学校や高校でチンピラめいた生徒たちが最も好きな先生はたいていの場合その学校で“一番怖い”と言われる先生です。体を張って子どもの人生に関わり合ってくれる上に、しばしば言い訳を与えてくれるからです。
「あの先生に見つかったら仕方ないな――」という訳です。


【怒鳴ってはいけないが、真に語るべき時がある】
 もちろんこれで教師の体罰やハラスメントを肯定しようというつもりはありません。すでに学校は冗談を冗談と受け取る高い共通認識がない限り、「ボーっと生きてんじゃねーよ!」さえ言えない世界です。不用意に言えば訴えられる可能性があります。

 『3年A組―今から皆さんは、人質です―』も『家売るオンナの逆襲』も『ハケン占い師アタル』もフィクションだからいいのです。「チコちゃん〜」は5歳だから許されるのであって、それ以上になるともう無理でしょう。

 では指導者は――教師は、親は、もう子どもたちに向かって大上段に振りかざして正論を訴えることはできないのでしょうか?
 いえいえそんなことはありません。子悪いことをしたとき、道を誤ろうとしたとき、そし何か特別な時、子どもたちは真剣に話を聞こうとしますから、そのときこそ真に話しておかなければならないことを語るべきです。

 卒業式が終わって戻った教室で、保護者も同席して行う担任の「最後の授業」は、まさにうってつけです。


【最後の授業】
 長く教員をやってきた私でも、卒業式後の「最後の授業」をやった経験は6回しかありません。卒業学年を担任できるかどうかは運に左右されますから。
 しかもこの「最後の授業」の大切さを知って本気で取り組んだのは担任教師として最後の方だけでしたので、記録も残っていません。

 ただ、探していたら次のような文が出てきました。四半世紀以上前のものでおそらく卒業文集に載せたものだと思われるものですが、きっと「最後の授業」でも似た話をしたはずです。
 いま読めば気恥ずかしい文です。しかし熱のある時期の呼びかけですから、子どもたちにもすんなり通ったと思います。

「立ち向かい、乗り越えよ」
 あと7年で20世紀が終わるという1993年、君たちは卒業していく。21世紀はまさに君たちに背負われて、新しい100年を踏みだすことになるはずだ。
 新世紀がここまで迫ってくるとかつてのように夢の21世紀と言った感覚は薄れ、かなり現実的なものとして予想することができる。

 新しい時代も、おそらく世界国家(世界がひとつになる)を達成することはできないだろう。戦争も飢餓も、残念ながらなくすことはできないはずだ。
 一般人が宇宙旅行をするという夢も、いまやいささか怪しくなった。

 人間は天然痘という病気を地上から根絶することに成功した。かつて黒死病の名で恐れられたペストも、今やこの世に存在するとは思えないほどになった。やがてガンも克服されるだろう。けれどそれにもかかわらずエイズの流行によって、我々は新しい病気が新たに誕生するという事態を決定的に思い知らされることになった。

 今から一万年ほど前、人類は週に三日働けば生活ができた。それが今は週六日も働かなければならない。
 科学が進歩すれば生活は良くなるはずだったが、何年たっても地上から問題が消え去る様子はなく、今や地球自体の存続さえ危ぶまれるまでになってしまった。
 こうなると問題を解決するために努力してきたのか、問題を生み出すために努力したのか、それさえもわからない気分になってくる。
個人の生に関しても、どこまで努力を続ければ努力しないですむ日がくるのか、まるで分からない。
 けれど、だがおそらくそれが歴史というものだろう。

 問題がなくなる日はたぶん永遠にこない。何か問題を解決したその日が新たな問題の出発点であり、その問題の解決が次の問題を生み出す。
 だから死ぬまで苦労し続けよと、そんなふうになりそうな話だが決してそうではない。要は問題の訪れることを喜び、問題を解決する喜びを持て、ということだ。

 面白いことに、そしてありがたいことに、さらに困ったことには、個人について言えば、人はその人にふさわしい困難しか持つことができないのだ。
 縄文人は戦争に苦しむことはなかったし江戸時代の人間が受験に悩むこともなかった。幼稚園児はほしいおもちゃが手に入らない程度の困難しか感じる力がないし、小学生が政治問題に悩むことはない。
 問題は常に解決可能な範囲でしか感じられないし、訪れてもこないのだ。だとしたら勇気をもって立ち向かい、乗り越えるべきだ。
 
 君たちに関する思い出はつきない。けれどもはや私の目は今や君たちの未来に向いている。

 歴史がその日めくりをいくつめくろうとも、困難はつきないだろう。だが私はもう一度繰り返して言う。
「問題の訪れることを喜び、問題を解決する喜びを持て。そして立ち向かい、乗り越えよ」
と。


*いつもの通り、学校の日課に合わせて活動するこの「アフター・フェア」も年末年始休業に入ります。
 平成31年度は4月8日(月)から正式に始めるつもりですが、必要があればそのつど記事を上げていきたいと思います。




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