2019/1/25

「教師の暴力や体罰をなくすために」〜子どもたちは天使じゃない4  教育・学校・教師


 体罰や暴力を行う教師を、「自覚」や「道徳性」で止めることはできない
 ダメと分かっていて平然と行う人も、分かっているのに止められない人もいる

 しかし同じ状況で殴らない人も多い、その方が圧倒的に多い
 そこは何が違うのか、そしてどう対処すればいいのか


というお話

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【精神論はウンザリだ】
 暴力をふるえばすべてを失う、一番大事な時期に生活を根底からすくわれる――そう分かっていながら彼らはなぜ暴力をふるうのか――いつまでたってもこの本質的な問いかけがないのが不思議です。

 たいていは「児童生徒の手本となるべき教師の、高い道徳性と自覚が必要だ」と言った話で終わってしまいます。
 私はしかし、暴力・体罰に限らず、問題の解決を「自覚」に求める方法は無意味だと思っています。

 「自覚」がないわけではないのです。道徳的かどうかは別にしても、少なくとも児童生徒に手を上げれば大変なことになるといった研修は耳にタコができるほどしてきています。それなのに起こる――。

 そうです。人間には「分かって」いてもできないことがあるのです。「自覚」していてもいけないことをやってしまう、そういう場合があります。かつての名曲「スーダラ節」にあるように、「分かっちゃいるけどやめられない」――それが人間なのです。

 そのことを前提として、では教師はどういう状況で、「分かっているのに」子どもを殴ったり蹴ったりしてしまうのでしょう。それについて考えます。


【暴力も悪くない、もしくは仕方がないと思っている教師が、わずかながらもいる】
 暴力や体罰を行う教師には、二種類の異なる人々がいるように思われます。
 ひとつは「暴力を行ってはいけない」と分かった上で文字通り「やってはいけない」と思っている人々、もうひとつがそれにもかかわらず「やってもいい」もしくは「やむを得ない」と思っている人々です。
 後者について典型的なのは、部活動の現場で起こるような暴力の担当者です。

 最近の分かり易い例で言えば(部活動ではありませんが)日本体操協会の宮川選手の場合が挙げられます。コーチは暴力をふるっていますがそれを悪いことだと思っていません。「選手がその痛みを回避するために、より苦痛の少ない練習に向かう」といったことを予定していないからです。

 この場合、暴力は怒りや真剣さを伝えるための道具です。
 言葉で伝え、怒鳴り声で伝え、それでも十分に伝わらないと感じると指導者は激しい情熱を鉄拳に込めて撃ち込みます。そして暴力に込めたコーチの思いはしばしば選手にも共有され、愛のムチとして認識されます。だから選手本人も家族も訴えたりしないのです。

 教師なら懲戒免職、プロのコーチなら解任につながる危険な行為ですが、それすらも「クビになる危険性も顧みず指導してくれる、ありがたい指導者」といった受け取りになりますから問題が浮かび上がってきません。選手やその家族から感謝される暴力ですから、当然、「悪い」という意識も薄れます。

 このタイプには次の3点を訴えるしかありません。
1.その指導者を訴えるのは選手とその家族だけではない。しばしば周囲で見ている者が訴える。そうなったら破滅だ。
2.100%安全な暴力というものはない。その殴打がタイミングの悪さから、選手に重篤なケガを負わせたり殺したりすることもある。
3.人間関係に絶対はない。指導者と選手の信頼関係も常に崖の淵にある。いったん崩れれば自分が与えた百の打擲がまとめて戻ってくる。あるいは「愛のムチ」が単なる「仕置き」でしかなくなり、選手を追い詰める。
 そんな例はいくらでもあるだろう。


【してはいけないと百も承知で、しかし暴力をふるう教師がいる】
 図らずも、今回の町田の事件が明らかにしたような例です。つまり教師が生徒から激しい挑発を受けている――。

 町田の事件はほとんどの情報番組であつかい、多くの識者・コメンテーターが驚き呆れながら発言していますが、日本の学校全体としてみた場合は、それが学校では日常茶飯であるという事実を踏まえてしゃべっている人はほとんどいなかったように思います、

 さすがにある芸能人は、
「今までオレらも短い映像を見せられたり音声を聞かされたりして、ああだこうだ、学校が悪いとか言ってきたけど、こうなるともう怖くて何も言えなくなっちゃうよね」
と感想を述べていましたが、それを受けた司会者は、
「いやテレビの場合はトータルでとらえて裏もとっているから違うけど・・・」
と遮ってしまいました。
 冗談じゃないと私は思います。
 これまで「ついカッとなって殴ってしまいました」といった体罰事件をいくつも扱ってきた情報番組ですが、殴るに至った細かな過程を十分に裏取りして放送した例など見たことも聞いたこともありません。
 カッとなるにはカッとなるだけの理由や条件があるのです。それを「教師が手を上げたら一切理由等は聞かない」という方向で一貫させてきたのはまさにマスメディアです。それが学校を追い詰めた――。


【しかしみんなが殴るわけではない】
 今回初めて、動画という形で学校における指導の現場があからさまに世間に出たわけですが、町田の動画を見たテレビの男性コメンテーターの多くが、同じ状況で自分を押さえられるか自信がないと言っていました。しかしある女性タレントは、
「だけど、いくらあんなふうに挑発されたといっても、子どものレベルまで下がって殴ることはない」
と、至極まっとうな発言をされていました。それもまた然りです。

 日ごろ中高生とつき合いのない男性タレントが、20歳も30歳も年下のガキからあんな言い方をされて我慢できなくなるのは分からないではありません。しかし教師は子どもと付き合うのが仕事で、“あんなガキ”連中をしょっちゅう見てきているプロです。それが子どものレベルまで下がって殴ってしまうのはやはり問題です。
 自分自身に置き換えても、30年前のまだ暴力に対して許容性の高かった時代ならいざ知らず、今の私なら、あるいは10年前の私でも、同じ状況でも殴ることはないでしょう。

 では、町田の高校教師をはじめこれまで“カッとなって”体罰をして処分を受けた教師たちと私たちで、何が違うのか――。


【大人の発達障害という可能性】
 最近ようやく「大人の発達障害」が問題とされるようになっています。
 発達障害は基本的に連続体(スペクトラム)ですから、ほとんど気づかれない人から重篤で誰が見てもすぐにそれと分かる人まで千差万別です。

 また一般的に発達障害は6〜7%の割合で存在すると言われていますから当然、教員の中にもいることになります。私自身は軽い方のLDだと自分を疑っていますが、同じように衝動性の強い傾向を持った人たちもいるはずで、彼らはどうしても挑発に対して抵抗力が弱くなると考えられます。

 昨日の記事で、町田の高校教師も10年以前に同じことをしたのではないかと疑ったのもそのためです。中学校の体育科の教師が、あの程度のありふれた挑発に乗って殴るのは、やはり釈然としません。ADHDとまでは言わなくても、沸点が低く、いったん怒りに火がつくと我を忘れてしまうのかもしれません。


【どうしたら良いのか】
 ではそうした“カッとなって”我を忘れて殴ってしまうような教師の暴力をなくすには、どうしたら良いのでしょう。

 今、私が思うのは、教師の怒りをコントロールする(アンガーマネジメント)訓練を拡充するということです。「叱らない子育て」「叱らない教育」ということも盛んに言われますが、学校現場で貫徹するのはムリです。叱ったり怒ったりする場面がゼロにならない以上、それをコントロールする術を身に着けるしかありません。それはすべての教員に必要なものです。

 もうひとつ。
 それとともに教師が怒らないで済むように、校則を整理してもっと使いやすいものにする必要もあります。
 簡単に言えば、これをやったらイエローカード、あれをやったらレッドカードというふうにして罪と罰を体系化するわけです。
教師による指導のばらつきも減らせますし、前もって知らせることで、生徒の不満も和らげることができるはずです。
 さらに「ゼロ・トレランス」についても、もう一度考えておく必要があると思いますが、今日はすでに十二分に紙面を使い切りました。これらの話は改めてにしましょう。


(参考) 
2014/11/19「体罰の問題」F最終〜体罰のない社会へ

2010/10/12 子どもに指導の枠を乗り越えられてしまったら 

2005/11/1「ゼロ−トレランス(zero-tolerance)」 





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