2018/8/30

「タトゥーの忌避は偏見か」〜タトゥーと校則問題2  政治・社会・文化


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【タトゥーの忌避は偏見か】
 おそらく日本国内で、現在も多数派であるタトゥーに対する否定的な見方を、「偏見」と呼んでいいかどうかは微妙です。

 私は何かを語るに際して「辞書では・・・」と始めるのを好みませんが、確認のために調べると、「偏見」は、
「かたよった見方。ゆがめられた考え方・知識にもとづき、客観的根拠がないのに、特定の個人・集団などに対して抱く非好意的な意見や判断、またそれにともなう感情」(大辞林 第三版)
とあります。
 タトゥーを入れているというだけで否定的な判断をし、非好意的な感情をもつことはやはり「偏見」になりそうです。問題はそれに「客観的根拠」があるかどうかです。


【タトゥーと彫り物の間に線を引くことはできない】
 これに関してダウンタウンの松本人志は、
「(外国人)観光客がどんどん増えてきているんでね。なんでもかんでもプールじゃなんじゃタトゥー禁止ってなるのは、僕はなんかちょっと考えたほうがいいかなあって」
と、プールや温泉が一律にタトゥーを禁止していることについて、考え直す必要があると話しています。しかしその一方、
「さすがに『Kill you』って書いてあるのは嫌ですけど、なんかちょっとかわいい(見た目のタトゥー)みたいなものが入ってたら、それ見て恐怖心は抱かない」
とも言って、許容が限定的であることを暗に示しています。
 そこが「客観的根拠」の境目です。

「ちょっとかわいい(見た目のタトゥー)みたいなもの」だと忌避する客観的根拠にならないが、「『Kill you』って書いてあるのは」(恐怖心を抱かせるものだから)客観的根拠になるというです。ましてや昨日・今日と私がタイトルに使ったような全身タトゥーやそれに近いものは許容できないということでしょう。
 大方の日本人が同意できる常識的な考えだと思います。タトゥーと言えど全身となると並んで入浴するのは落ち着きません。
 ただし現実問題として、これが判断の基準にならないことも明らかです。

 昔、“全身毛むくじゃら”みたいな男性を全裸にして、布で隠したうえで徐々に下げて行ってどこまで下ろしたらわいせつ罪になるかという挑発的な実験の写真を見たことがありますが、それと同じで「どの程度のタトゥーが恐怖を抱かせるか」とか「なぜ花柄は良くてドクロはダメなのか」「面積は何平方センチメートルまでか」と言った果てしない議論にならざるを得ないからです。

 結局、見るからにヤクザな倶利伽羅紋々(クリカラモンモン)から可愛いワンポイントタトゥーまで、十把一絡げに禁止せざるを得ないのはそのためです。
 そしてそれでいいと、多くの日本人が感じています。どんな小さなものでも、あるよりはない方がいい――日本人のタトゥーに対する許容量はかなり低いのです。
 ところで、こうしたタトゥーに対する日本人の不寛容と、やたらと彫りたがる欧米人(特にアメリカ人)、その差はどこから来るのでしょう。


【肉体は親や先祖からの頂き物ー日本の文化】
 これについて私は3回ほど書いていますが、そのひとつが「2011.11.01 親孝行考」です。
 そこでは子どものころ片目を失った伊達政宗が、生涯に渡って隻眼の肖像を許さなかったという話を紹介し、たとえ病気とはいえ、親からいただいた身体を傷つけてしまったことを恥じていたからだと説明しました。
「身体髪膚(しんたいはっぷ)、これを父母に受く、あえて毀傷(きしょう)せざるは孝の始め也(身体は髪や膚に至るまですべて父母より与えられたものである。これを傷つけないのは孝行の最初の一歩である)」(論語)
は、人として最低の倫理と考えられていたのです。

 時代劇でヤクザや渡世人が刺青をするのはそうした倫理に対する意図的な反抗であり、生涯消せない刺青を入れることで親子の縁を切り、一般社会と隔絶して生きる道を選んだことを明らかにするのです。
 江戸時代の後期にいたると町人の間にも大いに流行しますが、それとて新門辰五郎の町火消や、銭形平次のような岡っ引き・下っぴきの、いわゆる“親分=子分”で結ばれた世界までです。

 現代のタトゥーには親兄弟の縁を切るといった厳しい意味はありません。しかしプールだの温泉だのといった当たり前の娯楽を諦め、場所によっては真夏でも長袖を着て肌を晒さない覚悟ができなければ行えないものです。人から奇異の目で見られたり、敬遠されたりすることも辞さない、そうした人間だけができる特別なものなのです。
 まっとうな人間は刺青など刺さない、そうした思いは根強く私たちの中にあります。

 事故などで肉親を亡くした場合でも、日本人はそれがどれほど険しい山岳地帯であろうと大海原であろうと、必ず現場へ行って骨のひとつも拾おうとします。たとえ肉片のひとつでも戻ってくれば、それが死者を迎え入れたことになりますが、帰ってこないといつまでも死を受け入れることはできません。
 東日本大震災から7年も経った今でも、年に何回か人を出して海岸の砂利をさらって遺骨を探すのはそのためです。
 そうした頑固な肉体信仰は欧米にはないものでしょう。


【肉体は魂の入れ物ー欧米の文化】
 一方、欧米人は肉体に対して冷淡です。それは魂の入れ物であって死ぬと抜け殻となって残る残骸すぎません。真に価値のあるものは魂であって、肉体はむしろ蔑むべきものなのです。もちろんキリスト教の影響です。

 絵画や彫刻において、古代ギリシャ・ローマ時代にあれほど豊かだった肉体表現が、中世になるととんでもなく貧困になるのはそのためです。
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(左がルネサンス以前、右が以後)

 再び肉体が豊かに表現されるにはルネサンス(いわゆる文芸復興、人間中心主義)を待たなければなりませんでしたが、肉体の軽視または蔑視はその後も欧米文化の底辺を脈々と流れ、今日に至っています。

 遺体を修復し消毒した上で保存処理をするエンバーミングなどは、けっして日本では発達することはなかったでしょう。肉体を“単なるモノ”と考える感性がなければできることではないからです。

 タトゥーもその延長上にあり、身体をキャンバスのようにあつかって自由に絵画表現を行うという発想は、肉体を魂の着物と感じて初めて成り立つものです。

 身体を親からいただいた大切な人間の要素だと考える日本の文化と、真に大切なのは魂であって身体ではないとする欧米キリスト教文化は基本的に衝突します。
 その衝突の現場のひとつが、りゅうちぇる君の肩の上にあったのです。

                              (この稿、続く)



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