2018/5/30

「子どもの意思」〜子どもの意思はどこまで尊重されるべきか1  教育・学校・教師


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コルネリス・ファン・ハールレム 「竜に食われるカドモスの従者たち」

【行動療法の話】
 10日以上前の事ですが、朝日新聞に『14歳の身体拘束77日間 「殺された方がましだった」』という記事が載っていました。

 かいつまんで言うと、
 東京に住む女性(24)が摂食障害で入院した14歳のとき、77日間に及ぶ不当な身体拘束を受けたとして病院を経営する法人に、1056万円の損害賠償を求める裁判を起こした、というのです。
会見した女性は「殺された方がましだと思うぐらいだった。当時から訴えたかったが、子どもだったのでできなかった。力のない子どもに、こんなひどいことをするのはやめてほしい」と語った。
(中略)
 訴状によると、女性は2008年5月に都内にある病院の精神科を受診。摂食障害と診断されて入院した。病室ではベッド上での安静を求められ、起き上がることも、外部との電話や面会も許されず、排泄(はいせつ)は看護師の前で簡易トイレにしなくてはならなかった。
 抗議のため、点滴を抜いたところ、両手両足と肩を太いひもでベッドに縛り付けられた。栄養チューブを鼻から胃に、カテーテルを尿道に通された。排泄はベッドの上でさせられた。

ということで、ずいぶん酷い話のようにも聞こえますがもう30年以上前、私の教え子がこれと同じ目に合っています。“同じ目”というか、それが治療なのです。行動療法と言います。
 行動主義心理学に基づいた心理療法で、荒っぽく言えば“アメとムチ”によって問題を解決しようとします。教え子の場合で言えば、病室に入った瞬間から食事の度に、モノが減ったり増えたり、医師や看護師の態度がコロコロ変わったりしました。

 食事がきちんと摂れないと、まずテレビが病室から遠ざけられます。医師も看護師も仏頂面でロクな返事もしません。
 そもそも食事が摂れなくて入院したわけですから、最初はモノが減る一方。聞いていたCDが減らされる、マンガ本がなくなる、部屋に飾ってあった花までなくなるーー。
 しかし少しでも食事が摂れたり量が増えたりすると医師たちの態度は急によくなり、モノがひとつずつ返されます。看護師もにこやかに世間話に応じたりしてくれます。
 そういうことを繰り返す中で、やがてきちんとした食事が摂れるようになるわけです。子どもだましみたいですが、実際に問題の最低部分はクリアできるわけですから、素人の私としては結果オーライと考えるしかありませんでした。

 私は今「問題の最低部分はクリア」と書きました。それで摂食障害が完全に治ったわけではないからです。達成されたのはそのままだと餓死しかねない生命の確保と、食事そのものに対する抵抗感・嫌悪感の克服です。本質は認知の問題ですから、その後長くカウンセリングを受けることになります。


【問題の本質】
 最初に挙げた記事を読み直すと、告訴に踏み切った女性は14歳の入院時に点滴で栄養を補給しており、ベッドに縛り付けられてからは胃に直接栄養を流し込まれていますから、そうとう危険な状態で入院させられたのでしょう。病院が何もしなければ死を待つだけです。

 私より上の世代だとカレン・カーペンターというスーパースターがそのようにして亡くなったことを覚えているはずです。カレンはダイエットによって体重を劇的に減らし、治療の過程で 元に戻すという事を繰り返す中で、心臓を弱らせ、やがて亡くなったのです。
 普通の人間だったらカレンのような出来事が、誰かの身の上に起こることを望んだりしません。特に親や医療従事者、教育関係者はそうです。何としても若い命を摂食障害で死なせたくない――。
 そこで摂食障害に対しては、行動療法のような治療法も許されると考えるのですが、そこで問題となるのが、
「殺された方がましだと思うぐらいだった」
と語る女性の、14歳の意思をどれだけ尊重すべきかという事です。
 子どもであろうと、命に関わることであろうと、本人の意思は最優先されるべきだという、いかにも現代的なテーマです。

【さらに深刻な問題】
 子どもの意思をどこまで尊重するのかということについて、さらに深刻な問題が提起されたのは1985年でした。「大ちゃん事件」と言います。
 交通事故で両足に大けがを負った10歳の「大ちゃん」は、緊急処置として輸血を受けることになります。ところがそこに駆け付けた父親が、輸血拒否を言い出すのです。
 息子はすでに洗礼を受けたある宗教の信者であり、教義によって輸血を受けることができない、輸血を受けると神の国に生まれ変われない――両親はかたくなに拒否し、
「今回、私達の息子(大十歳)がたとえ、死に到ることがあっても輸血なしで万全の治療をしてくださるよう切にお願いします。輸血を受けることは、聖書にのっとって受けることはできません」
といった内容の『決意書』まで提出して、責任は問わないから輸血はするなと言う姿勢を強く示します。
 そこで10歳の子どもの意思確認が行われることになるのですが、当時の記録をみると、
(医師のコメント)
『死にたくないだろう、な、そうだろう、輸血して助かりたいだろう』と何度も言ったんですよ。
ところが父親も、子供の耳もとで、『お父さんの言う通りでいいんだな』と言うんです。
すると、医師達には何も反応しなかった子供が、父親の声にはうんうんとうなずくんですよ。

 結局大ちゃんは輸血を受けることなく、亡くなります。

 この事件に関する司法の判断は出ませんでした。
 警察は、 両親に対する保護責任者遺棄罪や未必の故意による殺人罪、医師に対する業務上過失致死罪、医師法違反などの容疑を追及できるかどうか、慎重に捜査を進めた結果、「輸血をしても助からない命だったから」と言う理由で不起訴にしてしまったからです。

 のちに大人について、患者が宗教上の理由によって輸血を拒否した場合、医師は必要であってもその意思に背いて輸血をしてはいけないという判決が最高裁から出て、この問題は一応の決着をみます。しかし10歳の子どもの意思は別問題でしょう。


【学校の現場で】
 私がこのことに関心を持つのは、かつて不登校の現場で「子どもの意思」がしばしば問題になったからです。
「子どもがもう学校へは行かないと言っています。この子の意思を尊重して、そのように
したいと思います」
「子どもが学区内の中学校には進学しないと言っています。本人の決意を大切にしたいと思います。市教委と協議の上、他地区の中学校に進学させます」
「本人がもうこの学校にはいたくないと言っています。その気持ちを大切にして転校させたいと思います」
 こうした言い方・考え方は保護者ばかりでなく、医師やカウンセラー、教育委員会の担当主事や一部教師からも出されてくるものです。

 子どもに寄り添う、物わかりの良いもの言いです。しかし私の気持ちにはまったくすんなりと入ってこないのです。

                                     (この稿、続く)

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