2015/10/29

「いじめの軛(くびき)」2〜マイ・レジューム  教育・学校・教師


 いじめ問題に関するさまざまな考察を見てきて、いつも不思議の思うことが三つあります。
 ひとつは昨日も書いた「なぜ時間的経過の中でとらえないか」ということ。
 いじめの様態は時期によって変化します。
 第二は、「なぜいじめの様態を分類しないのか」ということ。
 前述のことに関わりますが、一口にいじめと言っても様々な形があります。
 第三は「なぜ加害者を考察しないのか」ということ。
 いじめの原因を「加害者のストレス解消」と言ってしまえばそれで終わってしまいます。そして多くの場合それで終わりになっています。しかしストレス発散型のジャイアンのような子はそうは大勢いませんし、そうした子が友だちを死ぬところまで追い詰めるというのも考えにくいことです。さらにまた、私は昨日「人はいつまでもいじめの加害者・傍観者でいられるはずがないと思っていた」と書きましたがその気持ちは今も同じです。しかしそれにもかかわらず継続的に、執拗な暴力や精神的圧力が加えられるとすると、そこには何らかの理由がなくてはなりません。それを考える必要があります。

“いじめ”を考察すに先立って、まず二つの可能性を排除しなくはなりません。ひとつは恐喝を伴う場合、もう一つは私が“いじめもどき”と呼ぶような過剰な被害者意識が生み出す幻想です。

 前者について興味深い事例は1999年に名古屋で起こった「名古屋中学生5000万円恐喝事件」です。これは5000万円という通常では考えられない金額を、中学生が中学生から脅し取ったとして社会の耳目を集めましたが、その5年前、同じ愛知県で起こった「愛知県西尾市中学生いじめ自殺事件」の方は同じく金品を脅し立ったにも関わらず「いじめ」事件のままです。
 名古屋では被害者は死ななかったのに西尾では自殺したから前者が「恐喝」で後者が「いじめ」ということにはならないでしょう。自殺は「いじめ」の成立要件ではありません。それでは金額が問題なのであって、前者は5000万円なので「恐喝」、後者は110万円なので「いじめ」、そういう分類になるのでしょうか。それもおかしな話です。要するに意識の上で「5000万円」と「いじめ」がどうにもしっくり結びつかず、だから「恐喝事件」になったと、その程度のことなのでしょう。
「1000万円以上は恐喝」といった分類も意味ありませんから、金額にかかわらずいじめとするか、恐喝と考えるかのどちらかです。そしていうまでもなく、金の多寡にかかわりなく「脅して金品」手に入れるのは「恐喝」になたります。

 善悪は別として、「恐喝」は分かりやすい概念です。脅したり暴力を振ったりすれば労せずして金品が手に入るのですから、加害者にとってはとてもオイシイ話なのです。金を出し渋ったらさらにエスカレートさせればいいだけのことです。奪われるのしたがって要求額は上昇し被害者の懐は払底していきますから、暴力がエスカレートするのも当然です。
 名古屋の場合は無尽蔵に資金を提供してくれる祖母がいたからいいようなものの、西尾の被害者は金の工面ができなくなりついには親の財布に手を出すようになります。親にも教師にも相談できなかったのはそのためです。すでに裏切っている人に対して「助けて」とは言えません。
 西尾の事件は今日に至るまで代表的な「いじめ自殺事件」として繰り返し話題になりますが、図式的に言えば、亡くなった子が“いじめ”の被害にあっていたのはせいぜいが中学校1年生の半ばまで、あとはずっと恐喝の被害にあっていた――そう考えると事態は非常にすっきりしてくるはずです。
 実際、事件にかかわった生徒のうち4人は愛知県警によって恐喝容疑で書類送検、うち3人を初等少年院、1人を教護院に送致という処分になりました。これも合理的な判断と言えます。

                                   (この稿、続く)

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