2015/2/23

「教育は科学であってはいけない(かもしれない)」  教育・学校・教師


 昔、大学の先生と授業研究について話している最中にこんなことを言われたことがあります。
「で、対照群はどうするのですか?」
 私はポカンとしてしまいました。意味が分からなかったのではありません。学校教育の研究に“対照群”という概念を持ち込む可能性を全く考えていなかったからです。

 “対照群”というのは、たとえば新しいがん治療について、効果があると予想される薬や治療法を施すグループ(実験群)に対置して、同じ薬や治療法を施さないグループのことを言います。一定の期間を経て、両者の治療成績に有意差がなければその薬や治療法に効果がないことになり、有意差があれば“効果あり”と判断されます。
 対照実験の基本的な考え方で、科学が科学であるための最低条件です。しかしそれは学校教育にはさっぱり馴染みません。なぜなら、私たちは“効果がある”と信じた教授法や学習法について1組にはやってみて2組には行わず、両者の結果を比較するという発想自体がないからです。児童はモルモットではありません。それぞれのクラス、そこに所属する児童生徒にとって、その単元のその授業は一生に一回しかないのです。教師が“効果がある”と信じた授業をやらないわけにはいかないのです。

 ところが大学の先生にはそれが信じられない。言わせれば「小中学校の教員は、自分の確信といったまったく根拠のないものに基づいて研究授業をしているのか」ということになります。
もちろんこの場合、間違っているのは向こうであってこちらではないのですが、私たちもまた自分の仕事が必ずしも科学的根拠に基づいて行われているわけではない、ということを肝に銘じておく必要があります。
 
 教育学は経験の学問であって、多くの場合、「あの子にとって有効だったから、この子にとっても有効だろう」とか「あの場面で効果があったからこの場面でもうまく行くだろう」という推論の積み重ねの上に成り立っているだけなのです。なぜそうなるのか、脳内のメカニズムを解き明かす必要はありません。

 たとえば「小学校4年生くらいまでは具体物を示さないと数の概念を掴むのは難しいが、それ以上の年齢になると抽象的な概念で数を操作できるようになる」とか、「歴史の学習では中央政府のダイナミックな動きよりも自分の住む地域の、身近な事象から学ぶ方がさらに知識の定着が計られる」とかは、経験から導かれた仮説にすぎません。もちかしたら違っている可能性もあります。

「朝夕きちんと挨拶のできる子は、社会性豊かで人間性にあふれている(だから挨拶をきちんとさせよう)」とか、「好き嫌いなく何でも食べられる子は、忍耐強くものごとの飲み込みも早い(だから何でも食べられる子どもに育てよう)」とかいったことも同じで、「なぜそうなるのか説明しろ」とか「科学的証拠を示せ」とか言われても困るのです。
「そういう子はみんなそうだったから、そうに違いない」それだけのことなのです。

 逆に言うと、だからこそ子ども観察を良くしなければならないということですし、別の観点から言えば、「成果を見える形で出せ」「数値として示せ」といった圧力に抵抗しなければならないということです。“数値で示すことができるものだけが教育”となれば、それはほんとうに貧弱な教育です。

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