2015/1/27

「学ばぬ人たち」  親子・家族


 児童生徒は一人ひとり違うのだから、それぞれに合わせた教育が必要である――と、それはごもっともなのですが、それを突き詰めていくと個別教育以外の教育はできなくなってしまいます。

 実際には、子どもは(というか人間は)一人ひとり違っていると同時にかなりの類似性・普遍性を持っています。同じ個所で同じように間違えるし、同じように躓きます。冗談や笑い話だって「聞き手の大半が笑う」と想定できるので口に出せるのであって、数名は笑うけどあとは無表情だったり冷淡だったり、中には怒り出すヤヤツもいるかもしれないと思ったら、怖くて言えるはずもありません。

 三歳未満の子どものほとんどは「テレビ」を「テビレ」と発音し、「こども」を「こもど」と言い間違えたりします。小学校の低学年の子は「私は」を「私わ」、「学校へ」を「学校え」と書き間違えます。それはありふれたことです。

 家庭教育も同じであって、現代の家柄と言うべき家風や家庭の雰囲気があり、子どもも親もそれぞれ違っている――にもかかわらずなぜか同じことが起ってしまう。
 先日お話しした、ゲーム機を取り上げ隠し、子どもの懇願と「堅い約束」にほだされてそれを返し、約束を反故にされてまた怒鳴り声をあげゲーム機を取り上げる、その繰り返しを延々とやっている家庭は呆れるほど多いのです。
 携帯電話にしてもそうです。ケータイ・スマホの弊害があれほど言われながら、なぜ親は買い与えてしまうのか――。
 「約束は守る」「やり過ぎない」「夜の11時以後はしない」「勉強も頑張る」
 ケータイ・スマホを買い与えるときに子どもと交わす基本的約束ですが、この言葉、ゲーム機を買うときも、取り上げてそれを返すときも、繰り返しくりいかえし、くりかえし繰り返し交わしてきたものとまったく同じです。なぜ懲りないのか。

 中学校で「テストで〇〇点とったら××を買ってあげる」といった不毛な約束――。もちろん達成できればいいのですが、こういう時はたいてい達成困難な目標です。目標値が上がれば上がるほど高価な商品であることが通例ですから普通は達成できない。親も子も失望する。そして(親の方は失望だけで済みますが)子の方は無力感を学び続け、ついには試みる前から諦めてしまう切ない子に育ってしまう(これを「学習性無力感」と言います)。
 してはいけない約束の代表例のようなものですが、そんな罠にはまる家庭はいくらでもあります。繰り返し繰り返し出てきます。

 さらに・・・と言い始めるときりがないのでやめますが、これを何とか止めることはできないものでしょうか。
 人間は学ぶ生き物なのですから、他の親のやるような失敗はしてはならないのです。

(以上、私は基本的に保護者を悪く言わないようにしている人間ですが、今日は少しイライラしているので感情的なまま書きました)


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