2012/12/21

瑞浪事件、終わる  教育・学校・教師


 2012年12月21日、マヤ歴による人類滅亡の日だそうです。
 これまでも人類滅亡予言は山ほどありました。古くは1051年の末法入年(仏法が廃れ暗黒の時代が来る→そこで宇治平等院を建てた)から1910年ハレーすい星の毒ガスによる地球滅亡、ノストラダムスの1999年7月。麻原彰晃さんはご丁寧に5回も滅亡年を予言して未だに生き残っています。だからたぶん、今日も明日も明後日も、全体として人類は平穏でしょう。

 さて、一昨日のインターネットニュースに、小さく「二審も賠償請求棄却=中2『いじめ』自殺訴訟―名古屋高裁」(時事通信 12月19日《水》)という記事が出ていました。これは2006年に岐阜県瑞浪市で起こった事件で、中学2年生の女の子が同じバスケットボール部の生徒からいじめられ自殺したとされるものです。

 通夜の席で、学年主任だか教務主任だかが拙速に「はい、いじめのせいです。私が確認しました」と「いじめ=自殺」を認めてしまったり、その様子を遺族がVTRに隠し撮りしていたりと、最初から穏当でない空気の漂った事件でした。

 その両親が、遺書に名前が記されていた元同級生4人と保護者らを相手に約5700万円の損害賠償を求めた訴訟の控訴審判決で、名古屋高裁が訴えを退けた一審岐阜地裁判決を支持し、両親側の控訴を棄却したというのです。
 裁判長は「遺書にはどのような行為でどのような精神的苦痛を受けたのか、具体的事実に関する記載がない」と指摘。学校側がいじめを認めたとする両親の主張についても「教育界では本人が身体的、精神的に苦痛を感じていればいじめと見なされるが、それが直ちに民法上の不法行為に該当するとは言えない」と述べました。極めて妥当な判決だと思います。

 ポイントは2点。
 一つ目は、自殺につながったと考えられるようないじめの事実は(ほんとうはあったのかもしれないが)、証明されていない。したがって被告に賠償させることはできない、ということ。
 ネット上では「遺書にいじめの実態を詳しく書けというのか」といった批判が多く寄せられていますが、遺書でなくても事実として認定できるものがあれば原告勝訴となる可能性もなかったわけではありません。しかし自殺に向かわせるような、という意味での事実はほとんどなかったわけです。司法の判断としては適切なものでしょう。

 もう一つは、被害を訴える側の意思を全面的に尊重する文科省の定義でいじめと判断されても、民法上の不法行為に当たらない場合がある、ということです。
 文科省の定義は、『個々の行為が「いじめ」に当たるか否かの判断は、表面的・形式的に行うことなく、いじめられた児童生徒の立場に立って行うものとする。「いじめ」とは、「当該児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的・物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの。」とする。なお、起こった場所は学校の内外を問わない』というものですから、客観的に「いじめ」かどうかといった判断は問題になりません。本人の苦痛の有無が規準です。

 したがって例えば、友人グループから愛想を尽かされて仲間外れにされた場合も、本人が「いじめだ」と言えばいじめとなります。しかしそれが直ちに不法行為に当たり、損害賠償の対象になることはないということです。これも妥当な判断と言えるでしょう。

 瑞浪事件はこれで一応の終息を迎えることになります。法律上の“犯人”はいないことになります。判決を覆すだけの事実は今後も出てこないでしょう。何が起きたかは大部分が闇の中です。

 しかし“加害者”とされる女の子たちが何という名前で何処に住んでいて、どこの高校からどういう進路をたどっているかは、簡単に知ることができます。それはネット上にあるからです。そして今後いつまでも消えません。それどころか今後も逐一追加され続ける可能性があります。
 
 いじめ問題を扱うときには、一方で常に、その可能性についても考えておく必要があります。




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