2012/11/29

罪深さを知らせるA〜生徒指導の現場で  教育・学校・教師


 事情聴取において丁寧でねちっこい事実確認をする中で、犯罪者は自己の言動を細かく語ることを通して、次第に自分を客体化し、様々な事情や言い訳をそぎ落とし、やがて自らの罪深さを思い知る。そして敢えて命まで捨てる覚悟をし、正直な供述を始めるというお話をしました。
 生徒指導の場も同じです。
 子どもたちが深い反省をするのは教師の説得力ある言葉によってではありません。それで得られるものも少なくありませんが、“事実”の重みに比べたらほとんど鴻毛のごとき軽さです。

 例えばいじめの指導に際して「いじめられた側の気持ちを考えろ」などと言っても無駄です。あまりにも主観的とは言え、いじめる側にも山ほどの理由があるからです。
「あいつと一緒に仕事をするとたまらない。何もかも押しつけられるのだから」
「あいつはいちいち気に障ることを言ったりやったりする」
「やったのはボクだけじゃない」
・・・そういった主観的な正当性を打ち破るのは、自分がしたことの客観的な姿だけです。
「お前たちにはそれなりの理由がある(かなり身勝手だが)。しかしお前たちのしたことは何なのだ?」
ということです。

 どうしたらそれが可能になるかと言えば(これは以前にもお話ししたことですが)、事実に語らせるしかないのです。その点では警察の取り調べと同じなのです。

 あの日あの時あの瞬間に自分は何をしたのか。何を考えどんな理念にしたがい、何をどう動かし、どのようにしようとしたか。相手の言葉をどう聞き取ったか、それに対して何を感じたか。誰が何と言い、どう動いたか。その時道具は右手に持っていたのか左手だったのか、それからどうしたのか、何を言いながら相手に近づいて行ったのか・・・そうしたことがすべて語られ、指導を行う私たちの脳裏にありありと浮かぶようにならなくてはなりません。私たちの頭に明確なイメージが湧くとき、語っている”その子“の頭の中にも同じイメージが浮かびます。そしてそのイメージ(客観化された事実)が、犯したことの罪深さを知らせるのです。

 事実がそこまで明らかになったとき、もうお説教など無意味です(ここで多くの教師は深追いをして説教などするから、子どもはウンザリして反省したことを後悔したりします)。それがすべてです。

 ついでに、
 この徹底した“事実の確認”というのは、今日別の意味でも非常に重要視されています。それは事件を間に置いて保護者と話すとき、事件によっては保護者説明会の会場で、あるいはマスコミに対してアナウンスする際、“事実の確認”に隙があると必ず突っ込まれるからです。突っ込まれて答えられなかったり見当違いなことを発言したりすると、そこから不信感が生まれそれを修復するのは容易ではありません(ほとんどの場合は修復不能に陥ります)。

 大津のいじめ事件も石巻の大川小学校の事故も、最初の説明会はやらない方がマシなくらいでした。終わってみれば不信感を産みだしただけで何も残らなかったからです。ウチの子が犯罪者扱いされるかもしれない、事実が学校によって隠されるかもしれない、そういった場では保護者も必死なのです。

 そうした必死の目にも耐えうるだけの“固い事実”を持っていなければ到底支えきれるものではありませんし、一部にでも隙があれば重大な禍根を残します。
 そしてそうした“固い事実”は、事件や事故の直後でないと構成できないのが普通です。最初の段階で、丁寧でねちっこい調査をしておかなければ、あとはないのです。


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