2012/11/28

罪深さを知らせる@  教育・学校・教師


 日本の裁判で3人以上を殺して死刑にならなかった例はないと思います。もちろん1人の殺人で死刑になることもあります。ですから人を殺した人間は絶対に警察にしゃべりたくないし、3人以上殺したとなるとしゃべることはと死ぬことは一緒ですから、決して口を割りません。それが論理上の必定です。しかしそれにもかかわらず、実際には多くの殺人犯が犯罪を告白し、従容として死を受け入れます。それはなぜなのでしょう。

 時代劇で見るように動かぬ証拠を突きつけられ、切羽詰まって「御見それしやした・・・」と白状するわけではないでしょう。刑事訴訟法で黙秘権が認められているからには、都合が悪くなったら黙ればいいだけのことです。本当のことを事細かに話す必要はありません。しかし権利があり、死と引き換えなのにもかかわらず、殺人者たちは易々と白状してしまう・・・そこにはやはり、悔悟と贖罪の気持ちがあるのです。そうとしか思えません。すべてを告白し身をきれいにして死に就こう、自分の罪を死をもって購おう、そういう意志があるのです。

 ではなぜそうした意志が生まれるのか。
 ここからは想像でしかないのですが、それはつまり、テレビドラマで見るような丁寧でねちっこい事実確認の中ら生まれてくるのだと思うのです。一通りの話を聞いてから刑事の言うあの一言です。
「よし分かった。それじゃあ最初からもう一度話してもらおうか」

 それは殺人者の言葉の中に矛盾を発見しようとする試みであると共に、追求者が犯罪全体のイメージを固めるための作業です。しかし同時に、しゃべる側にとっては事実を客体化する作業にもなってきます。

 あの日あの時あの時間に自分は何をしていたのか。何を考えどんな理念にしたがい、何をどう動かし、どのようにしようとしたか。相手の言葉をどう聞き取ったか、それに対して何を感じたか・・・そうしたことを他人である刑事たちに知らせるためには、どうしても一旦自分を切り離し、誰か別の人間の目になって見つめ返し、説明する必要が生まれます。過去の自分の言動ですから、今の自分が説明しようとするとどうしてもそうなります。

“他人である自分”は、“犯罪を行っている最中の自分”とは異なります。“犯罪を行っている最中の自分”が持っていた怒りや苦しみ、「金がなかったから仕方ない」とか「相手が悪いからしょうがない」といった山ほどの言い訳や正当化も、“他人である自分”は共有できません。

 そうなると“殺されつつある被害者”の痛みや切なさ、その人が持っていた家族や友人関係、殺されなければ確実にあったその人の未来・・・そうしたものが一気に見えてくるのです。怒り震えていた時、思いつめていた時には見えなかったものがすべて見えます。そしてつい今しがたまであれほどたくさん持っていたはずの正当化の論理が一斉に崩れ、自分の犯した犯罪の罪深さがどっと押し寄せる・・・殺人者の告白の場面で起こっているのはそういうことだと思うのです。

 そうでなければあんなふうにしゃべるわけはないのです。
                            (この稿、続く)


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