2012/3/15

夢の持ち方A  教育・学校・教師


 かつて「自分探し」という言葉が流行ったことがあります。ほんとうの自分を探し、自分が生まれてきた意味を探るために、旅に出たり、あるいは定職につかず一定期間フリーターとして働くことを言います。彼らの望んでいたのはある程度自由な身分のまま、さまざまな人に出会ったり環境に身を置いたりすることで、ある日突然しっくりくる自分、自分に最もふさわしい生き方を見つけ出すといったものだったように思います。

 今は学校を出ると同時に定職につかなければ、生涯ハケンかフリーターだとか言われますので表立った「自分探しの旅」はなくなりましたが、本質的に自分をつかみ損ねてフワフワしている若者はけっこういそうです。

 ただしこの「自分を探す」とか「自分の生まれてきた意味を探る」とか、あるいは「自分をつかみ損ねる」という言い方には、「本当の自分」は「この自分」とは別のところにある、という思い込みがあります。「本当の自分」は、自分の外や自分自身の中の片隅にあるようなのです。

 しかしそれは違う、と言ったのはサルトルでした。人間というのはそういうものではない、人間は万年筆や机や椅子とは根本的に異なるのだと。

 例えば、「万年筆」は、製品としてできあがる以前から存在しました。どんなふうに存在したかというと、「インキ壺を内蔵し、いつまでもインキの出続ける筆記用具」といったかたちで人間の頭の中に存在したのです。頭の中の「万年筆」はのちに具体的な製品のかたちとなって現れます。机もイスも、「物を置いたり書いたりするための平面を持った台」とか「人間が高い位置で座るための道具」とかいったふうにまず人間の頭の中に存在し、それから「モノ」になります。しかし人間は違う。

 それは誰かの頭の中に概念として存在し、それから物となって世の中に生み出されたのではなく、まず生まれてしまう、生まれてから存在が問われると言うのです。

 もちろんそう言えば、いや草や木や、魚や鳥だって何かの用途や先行する概念があって生まれたものではないという反論ができますが、これら草や木や、魚や鳥と人間とでは、決定的な違いがあります。それは人間だけが「自分の生まれてきた意味」を問うからです。人間だけが「本当の自分」を持ちたがるのです。
 
 若い人と話していて「本当の自分」や「自分に正直に」といった話が出てくると、最後に持ち出すのがこのことです。自分の外や自分の内部の片隅に「本当の自分」があると考えるのも間違いであれば、いま感じている「自分」だけが自分であると考えるのも間違いです。

「自分」はまず生まれてしまうのですから、空っぽの何もないところから創り上げていくしかないのです。そして日々更新することによってしか存在しません。

 夢をもつというのは、そうやって自分を創り続けるために目標を置くという、ただそれだけの意味しか持たないのかもしれないのです。


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