2011/4/28

美・サイレント  教育・学校・教師


 例えば質屋さんがルイ・ビトンの真贋を鑑定するにあたっては、どうやら膨大なデータとの照合があるようです。ロゴの印刷が不鮮明だとか、タグの縫い付けがいい加減だとか、贋作者には贋作者なりの個性があって、そうした情報に精通することが鑑定の基礎となります。しかしそれは一定量以上の大量生産品についていえることで、例えば狩野永徳の贋作となると贋作自体が数千数百あるわけではないのでデータ自体が揃いません。そこで必要になってくるのが高度の鑑定眼ということになります。

 では鑑定士たちはどのようにしてそうした眼を養ってくるのでしょう。
 これについては「開運!なんでも鑑定団」の中島誠之助さんがこんなふうに語ったことがあります。
「鑑定士というのは本物と偽物を比較しながら育ってくるのではない。鑑定士たちは小さなころから良いものしか見ない。優れたもの一流のものをふんだんに見て育った眼には、偽物は鮮やかに浮かび上がってくる」
 この話は以前に申し上げたことがあるかもしれませんが、私のずっと大切にしているものです。

 道徳の半分は「美」の問題です。これはテーブル・マナーだとかさまざまな所作のことを考えるとすぐに分かります。

 ひじをついてご飯を食べてはいけないだらしない格好をしてはいけない、目上の人と話すときはこうしなさい、言葉遣いは丁寧にしなさいとかいったことはすべて善悪の問題ではありません。「他人に迷惑をかけない」といった道徳の範囲にも入りません。こうしたことはすべて『それが美しいかどうか』で計られる問題です。そしてそれが問題となる前提として、「美しいことは重要だ」という認識があります。これは提言命題で「なぜ美しいことは重要か」という質問を許しません。とにかく必要なのです。

 その上で、では何が美しく何が醜いか、その基準はどこにあるかというと、これがまったく説明できないのです。なぜなら「美」はもともと説明できないものだからです。

 ピカソがなぜ美しいか、モーツアルトの楽曲がなぜよいか、ある場所のある時間の風景が「美しい」のはなぜか、こうしたことは一切説明不能です。実際にたくさんの美術品や美しい風景を見る中で、自然に分かってくること、「ああ、確かにみんなが言うようにこれは美しい」と理解できるものなのです。

「躾は押し付け」という言葉を肯定的に使う人と否定的に使う人の双方がいます。しかし道徳の「美」に関する部分は、(押し付けろとまでは言わないまでも)すべてよきものを体験することでしか身につきません。美は、黙して伝えるものです(だから「美・サイレント」)。

 教師の美しい立ち振る舞い、言葉遣い、他人にものごとを譲って自分を後回しにする謙虚さ、弱い者を守る気高さ、そういったものはすべて子どもの“体験”として取り込まれていきます。またクラスの友だちの美しい一挙手一等速が、「美」で溢れることは、だから絶対に必要なのです。

 もちろん世の中のすべてがそうでなくてはいけないのですが、「すべて」という点では世の中なんてまったくアテになりません。意図的にそれを示せる人間は、組織としては学校の中にしかいないのですから。


0



コメントを書く


名前
メールアドレス
コメント本文(1000文字まで)
URL




teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ