2021/7/22

「更新しました」〜キース・アウト   教育・学校・教師


 いよいよ小学校高学年の教科担任制が本格的に始まるが、
 教科担任の手配がつかない。
 やってもいいという人材も足りないが、教員を雇う予算もない、
 法律上の制約があってそもそも教員の数が増やせない。
 こうして学校は死んでいく。誰が学校を殺したのか。

kieth-out.hatenablog.jp


 


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2021/7/21

「アスリート・ファーストの『ア』の字もない」〜それでも私はオリンピックを応援したい  政治・社会・文化


 とにもかくにもオリンピックは始まる。
 今日まで何も言わず、ひたすら耐えてきたアスリートたちが、
 静かに表舞台へ出てくる。
 私は彼らを心から応援したい。

という話。
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(写真:フォトAC) 

 開会式まであと二日しかないというのに、東京オリンピック、まるで盛り上がりが感じられません。もっとも23年前の長野オリンピックのときもまったく盛り上がらず、スピードスケートの清水宏保が男子500mで金メダルを取ったとたん、一気に雰囲気が変わりましたからそんなものかもしれませんが。

 ただし、これほど「やめろ」「今すぐ中止せよ」といった声の中で開かれるオリンピックもそうはないと思います。私にはそれが切ないのです。


【選ばれし人々の背負ってきたもの】
 世の中には異常に足の速い人や泳ぎの得意な人、身体機能に優れた人が大勢います。
 つい先日の「チコちゃんに叱られる」では、運動神経は天賦のものではなく、だれでも訓練によって高めることができると言っていましたが、100mを16秒かかる人間が15秒に縮めることはできても、9秒台で走れるようには絶対にならないでしょう。
 可能性ゼロとは言いませんが、私の2歳になったばかりの孫のイーツを、誰かに預けたら確実にオリンピックのメダリストにしてくれるとか、東大に入れてくれるとかいったこともなさそうです。

 昔の人の話ばかりで恐縮ですが、水泳の岩崎恭子は小学校4年生の時の全校マラソンで5・6年生を抑えて一着になっていますし、ミカン農家の息子のゴン中山こと中山雅史は父親が忘れ物をするたびに、ミカン山と自宅とを何往復でもできたと言われています。
 栴檀は双葉より芳しいのです。超一流のアスリートたちはとりあえずアスリートとして生まれることが大事で、凡才から育てられるものではありません。

 しかしだからと言って、彼らが幸せかというと別問題です。才能のある人の前にあるのは、永遠の希望と競争と挫折と迷いだからです。

 子どものころはクラスで一番足が速かったりサッカーがうまかったりして意気揚々としていたかもしれませんが、すぐに次の段階の力を試されます。
 中学校の部活で早々に諦めさせられた人はむしろ幸せなのかもしれません。高校の有力校から誘われてそちらに行った人は全国の強豪と競わされえることになり、そこで敗れて諦めざるを得なくなった人の中には、見方によれば“勉学に励めばよかった3年間を、ただ運動に明け暮れてしまった”という場合もあるはずです。
 高校から大学、大学からプロ、あるいは実業団、その間も希望に引きずられ、競わされ、挫折や失望を繰り返してやがて振り落とされていく。最後に残るのは真に天才的なごく一部だけです。

 そうした希望や不安に耐え、それでも競技を続け、自分を投げ込み続けてきた彼らには、ほんとうに頭が下がります。投入された時間とエネルギーと資金、無限の努力、ご家族の支援は、途方もないものだったはずです。


【誰も選手を祝福しない、アスリート・ファーストの『ア』の字もない】
 考えてみるとこの一年間の、アスリートたちの辛苦は想像して余りあるものがあります。
 1年延期になったことでピークを維持できなかった選手がいます。昨年だったら予選通過できたのに今年になったのでできなかった誰かです。
 逆に延びたことで救われた選手もいました。池江璃花子選手も救われた一人で、リレーでの出場に道を開きました。しかしそのことで、昨年だったら出場できたはずの誰かが押し出されたことになります。もちろんそれも織り込まなくてはならないアスリートの運です。

 めでたく出場を果たした人たちは運の強い人たちですが、無限の喜びをもってオリンピックに参加するわけではありません。池江選手のSNSに辞退を促す書き込みがあったように、オリンピックが中止または再延期になればいいと考えている人は、朝日新聞によると国民の83%にも上るのです(2021年6月3日)。

 つい先日も迎賓館前に集まった群衆が、「オリンピックより国民の命!」とか叫んで気勢を上げていました。もちろんこの人たちがみんな、アスリートたちの夢がついえればいいと思っているわけではありませんし、選手たちを国民の敵のように見なしているわけでもありません。
 しかし新型コロナ禍さえなければ国民の期待を一身に背負って会場に向かい、何の憂いもなく戦えたはずの人たちが、今回は誰ひとり脚光を浴びることなく、静かに競技場に向かっていくのです。選手の一部には、国民からまったく支持されないオリンピックに参加するという後ろめたさを感じている人も少なからずいるに違いありません。


【アスリートが生み出す最高の感染症対策】
 実際のところ、この一年間はアスリートの気持ちなど誰一人考えていなかったのです。つい数年前は「アスリート・ファースト」という言葉が盛んに使われていたのに、アスリート」の「ア」の字もありませんでした。

 4年、5年、あるいは子どもの頃から数えると十数年もの間、身を焼き尽くすほどに焦がれ努力してきたオリンピックに、なにがなんでも参加したい――そういった選手の気持ちは痛いほど理解できますから、敢えて見ないようにしてきたというのが本当のところでしょう。選手の方も、何か言って叩かれても辛いだけなので黙っていました。
 しかしほんとうは、「誰のためのオリンピックか」と問われて「アスリートのためのオリンピックだ」と答える人がいても良かったのです。

 こうして誰も何も言わずに来ましたが、私は夢をかなえてあげたい。応援したい。
 オリンピック委員会は感染対策をしっかりすると言っていますし、毎日、関係者の感染が発見されると言っても、連日千数百人の感染者の見つかる東京でのことです。守るべきはむしろ大会関係者といった様相すら呈しています。いまさら外国人からの感染流入も恐れるに足りません。

 マスメディが今もオリンピックに反対して選手たちを支えないなら、私たちが支えましょう。毎日テレビをしっかりと見て、家の中で大声で応援すればいいだけのことです(当方、ワクチン接種済みの夫婦一組のみ)。

 選手も雑念を忘れて競技に集中し、存分に活躍してほしいものです。
 国民が静かに熱中し、会社員が飲み屋に立ち寄ることなく、テレビ観戦のために必死に帰宅するとしたら、それこそアスリートが直接的に引き出す強力な感染対策です。

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2021/7/20

「終業式も大切なステップ」〜1学期が終わりますA  教育・学校・教師


 意識させなければ子どもは分からない、
 しかし分かればすぐにできることも少なくない。
 今日までそのように育てられてきたし、
 今日の学びが明日の足掛かりになるのだから。
 終業式、しっかりと参加させよう。

という話。
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(写真:フォトAC)

【観劇にどんな服で行く?】
 しばらく前のことですが、特別支援学校高等部職業科というところに勤める私の妻が、
「ヤッチマッタな」
と下品な言葉を使いながら帰ってきたことがありました。
 聞けばその日、「観劇教室」という市主催の行事があって、市民ホールまで生徒を引率したのですが、そのときの子どもたちのカッコウが酷かったというのです。妻に言わせれば、
「私服と言ったら普段着できた」
ということになります。「ヤッチマッタな」は指導すべき内容を落としてしまったので、結果がこうなったという意味です。
 妻は職業訓練部門の責任者ですが、学級担任としては副担任ですのでそのぶん抜かりがあったということなのでしょう。

 観劇というのは普段着で行っていい場ではありません。いや、行っていい場合もありますが、そうでない場合もあります。
 歌舞伎座や新国立劇場のオペラパレスに行くなら多少気合を入れるくらいがちょうどいい。決して安いとは言えない劇場の一等席だのS席だのに座っている人たちの服装は、まるっきりの別世界ですから、そういう人たちに交じっても悪目立ちしない程度の服装――要するに常識的な服装で行くべきなのです。具体的に言わないと分からない人のためには、浴衣(寝巻)やボロボロのダメージジーンズ、襟の伸びたTシャツはやめましょうということです。

 市民ホールで高校生を招待して開かれる演劇や演奏なら、それほど緊張する必要はありません。制服のある学校なら制服、そうでない場合は制服に準じた私服でいいのですが、ラメキラキラのピンクのTシャツにホットパンツはダメでしょう。サンダル履きで来てはいけません。



【言わなくては分からないが言えばわかる】

「そんなことは言わなくても分かるだろう」
というのは実際の高校生を知らない大人の浅慮。妻の場合は特別支援学校の生徒ですからより細かな配慮が必要ですが、基本的にはみな同じです。大人だってしばしば場違いな服装で現れる人がいるのですから、子どもはなおさらです。

 そしてここからが最も大切な部分なのですが、それは、
「言ってやればいいだけのことで、説明の必要はない」
ことです。

 明日は観劇教室という前日にひとこと、
「本当は制服で行けばいいのだけど、この学校には制服がないからそれなりの服装で来なさい」
そう言っておけばそれなりの服装ができたはずなのです。妻の「ヤッチマッタな」も、“その程度で済むことを見落とした”といった口惜しさの表現です。
なぜ言えばできるのかというと、高校生になるまでになんども練習してきたからです。

 世の中には特にかしこまってきちんとしなくてはならない場がある。ひとの話を面白くても面白くなくても、最後まで聞かなくてはならないときがある。どんなに楽しい内容であっても、羽目を外しすぎてはいけません――。


 そういうことをどこで学んでどこで練習したかというと、学校の行事――卒業式だとか始業式だとか終業式だとか、学習指導要領の規定で言えば「特別活動」の中の「学校行事」の中の「儀式的行事」を通して、なんども練習してきたのです。
 校長先生の長く退屈な話にも実は大切な意味があるということ、儀式的行事の終わった後の教室で、担任の先生から改めて説明されたことはありませんか?


【終業式も大切なステップに】
 さて今日は終業式です(という学校が多そうなので)。
「一学期終業式の計画」といった書類を丁寧につくる学校では、式の狙いとして、こんな一文が書かれている場合があります。
「礼儀正しく落ち着いた態度で臨み、互いの成長を確認するとともに、長かった一学期を無事過ごせたことを喜び合い、夏休みを安全に過ごした上で、2学期に再び、健康で意欲的な再会を果たすことを誓う」

 単なるお題目のように考えられがちですが、ちょっと意識すると子どもたちへの接し方も変わってきますし、子どもたちの姿勢も変わってくるかもしれません。
 まさか、
「校長先生のお話、今日もつまらないと思うけど、我慢して黙って聞くのよ」
とは言えませんが、
「さあ、背筋をピシッとして! しっかり前を向いてお話を聞きましょう(つまらなくてもそうするものです)」
くらいは言えるでしょう。

 それが、将来、場をわきまえた大人となるための大切なひとつのステップなのです。



 
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2021/7/19

「通知票という私の武器」〜1学期が終わります@  教育・学校・教師


 通知票、間に合いそうかな?
 使い方によっては、児童生徒を生かしも殺しもできそうなこの武器。
 私にとっては保護者と直接話すことのできる重要な道具だった。
 もっとも現代では他にいくらでも方法はあるが――。

という話。
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(写真:フォトAC)

【通知票、間に合いそうですか?】
 いよいよ明日は一学期終業式です(という学校がかなり多くあります)。

 昨日・一昨日と通知票に忙しかった先生も多かったのではないでしょうか。管理職に目を通してもらうことが義務付けられている学校では、もうとっくに終わっているかもしれませんが。
 現役のころの私は終業式の三日前くらいにはすっかり仕上がっていて、あとは渡すばかりに――ということを常に目標にしながら、一度も達成したことはありませんでした。前日の夜に仕上がっていればまだしも、最悪の時は終業式の当日、午前7時半まで書いていたこともあります。しかし終業式の最中ですら書き続けていた先生も、結局間に合わず、夏休み中に改めて取りに来させた先生も知っていますから、私なんかまだマシなほうです(ということにしておきます)。


【コピペの通知票、大丈夫?】
 他の先生がたがどんな書き方をしているのかは、ついぞわかりませんでしたが、今はSNS時代、その片鱗がうかがえる記事がいくつもあります。中でも驚いたのが、所見欄の文章を7種類ほど用意して、児童生徒に応じてコピペ(コピー&ペースト)するという先生方が、案外多いことです。

 子どもは千差万別、一人一人違っているとはいっても、全員がてんでんばらばらなら教育などできません。算数の間違え方や教師の指示に対する反応にはある程度の類型があって、だからそれを頼り指導の方針を立てられる、それが普通です。
 ですから通知票の所見欄に七つの文例を用意して、あとは当てはめていくだけという方法が間違っているとは言えないのですが、似た者同士4〜5名を一括で評価できる文章――同じグループのA君・B君・C君・D君・E君の保護者が、誰も違和感をもたないような単一の文章、それを考えるのって、すごく大変じゃないですか?
 そんな名文を7種類も作っている間に、35〜36人の所見なんて簡単に書けてしまいそうな気もするのですが、いかがでしょう。


【通知票にネタ本はあるのか】
 同じことは通知票のネタ本についても言えます。
 いつぞや教育評論家の尾木某が、いかにも訳知り顔で、
「実は通知票の所見にはネタ本があるのですよ」
とテレビで話しているのを聞いたことがありますが、彼が紹介したのは教師向けの教育雑誌の付録でした。

「通知票所見文例200」だとか「総合的な学習の時間の評価100」とかいった文例集は、私が教員になった半世紀前くらいにもあって(あ、総合的な学習の時間はそれ自体がなかった!)、実際に新卒の時には私も買ったことがあります。
 しかし当時の受け持ち生徒数42名と対照すると、「文例200」との組み合わせ8400通りにもなってしまいます。

 例えば名簿番号1番のA君にふさわしい文例を探して1から辿って行き80番目くらいに良さそうな文章を見つける、しかしそれより先にもっといい文があるかもしれないので最後の200番まで読んで、“やっぱり80番かな”と考えて戻って書き写す。
 次に名簿番号2番のB君の評価を探して「文例200」に向かうのですが、このとき頭のいい人なら“B君にふさわしいのは156番のあの文!”とかいったことになるのでしょうが私はダメです。結局最初から、頭の隅にB君を置いて200番までたどっていくことになります。
 もちろん最後まで同じ調子で続けるのではなく、多少の知恵もつきますが、のべ8000回余りも読み続けることは間違いないでしょう。そんな苦労をするなら、42人分全部、自分で考えて書いた方がよほど楽です。

 したがって、
「通知票にネタ本はあるのか」
の答えは、
「あるけど、ほとんど使えない」
が正解いうことになります。
 

【通知票という私の武器】
 学校という教育の戦場での、先生たちの戦い方は千差万別です。何を武器とするかはその人によります。

 私にとって1学期の通知票は、とても重要な武器でした。日ごろめったに語り掛けることのないすべての保護者に、そして間接的にはその子どもたち(児童生徒)に、私が抱いているその子の心象・理解、そして思いや願いを伝える絶好の機会だからです。
「私はこの子のことをこんな子だと考えています。長所はこれこれこういう点だと感じていますが、それはああした事例からうかがえたことです。ただし、こちらのこういう点に関しては、まだまだ感心できない部分が残ります。あのときああしたことは確かに悪くないのですが、こうすればもっと良かったかもしれませんね。2学期以降、この点とあの点につては私も注意深く見ていきますので、お家でも気にかけて、ときどき訊ねてやってください。これからも頑張りましょう」
 こんなふうに書くことで、
「ああ、この先生はうちの子のことをしっかり見てくれているんだ」
「うちの子のこんないいところがあって、その点を評価してくれるんだ」
「ああ、こういうことに注意して行けばいいんだな」
と、そんなふうに考えてもらえれば、2学期以降ずいぶん楽になる面があると考えたのです。

 もちろん子どもを誉めるのに通知票の季節まで待っている私を咎める考え方もあります。私の知るある若い先生などは、年じゅう保護者に電話をかけていました。その内容のほとんどは、
「今日、〇〇君はこんなことをしててねえ、いやあ感心しました」
といった話です。そばで聞いてると初めのうちは虫唾が走るほどいやらしいやり方だと思ったのですが、なんどもなんども聞かされているうちに、“ああこの先生、やっぱいい先生だワ」と思えるようになってきます。
 こういう先生が、通知票までバカ丁寧に書く必要はないのです。私の武器は通知票ですが、この人の武器は電話だからです。


【実は私も手を抜いていた】
 かくいう私も、1学期通知票こそ異常な熱意を込めて書きましたが、2学期は懇談会直後ということもあって「懇談会で申し上げた通りです」でお茶を濁し、のちには同文のゴムスタンプまで作って押して終わりにしました。
 3学期の所見欄は基本的に「進級(卒業)おめでとう」と「頑張りました」といった内容だけです。もっとも1学期に書きすぎていますから、2・3学期は記入する場所さえありませんでした。

 さて、まだ仕上がっていない“通知票を武器とする先生方”、今夜は徹夜の勢いで頑張りましょう。どんなに仕事の遅い先生でも、この仕事が間に合わなかった例は(一人を除いて)まったくありませんから大丈夫です!
 

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