2020/10/22

「自分のフンドシは洗って渡す」〜書類の整理の工夫  教育・学校・教師


 隣り百姓とはいえ、私だって他人のフンドシをあてにしていただけではない。
 時には誰か役に立とうと頑張っていたこともある。
 もっともこの世界、
 「自分のために」が「誰かのために」であることも少なくないのだ。

という話。
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(写真:フォトAC)

【他人のフンドシ探しをしていただけではない】
 昨日、仕事なんて人より先にやればいいというものじゃない、本質的でない仕事は手を抜け、右を見て左を見て、誰かがやってからその様子を伺いながら始めればいい、そんなことを書きました。しかしこのままでは他人のフンドシを探してばかりいたみたいで居心地がよくありません。
 そこで私なりに人に先んじてやって、人様の役に立った仕事について記して、心の平衡を保ちたいと思います。やったことは大きく分けて二つです。
 ひとつは「来年の計画作り」、もうひとつは「電子書式の充実」。


【来年の計画作り】
 例えば新たに運動会の総務係に任じられ、総務として今年の計画を立てようとするとき、まず初めにするのは何でしょう?
 たいていの場合、最初に行うのは去年の“計画”を見るという作業です。しかしそこには落とし穴があって、去年の“計画”には去年の反省がいっさい入っていないのです。ただ前年度踏襲をすると、去年と同じ間違いを犯しかねません。
 そこでファイルをあちこち探して昨年の“運動会の反省”を引き出し、“計画”と対照しながら今年度の計画を立てようとします。それが普通の手順です。

 しかし前の年にしっかり反省しているなら、まだ記憶に新しい前の年のうちに今年の“計画”を立ててくれていたら、どんなに楽なことか――。次の年にならなければ分からない日付や担当者の氏名は別にして、本質的な部分は何年たっても変わらないものです。
 そこで私は、それをするように心がけました。
 もちろん今年のように“コロナ禍の下での運動会”というような特殊事情が発生すれば根本的な計画変更ということもありますが、それは特殊です。
 
 運動会が終わって職員会議で“反省”が通過すると、その内容で次年度の総務係の計画を作り直しておくのです。
 大して難しいことではありません。
 総務係のフォルダを丸ごとコピーして年度をひとつ足し、中の“計画”ファイルを“反省”を生かして書き直し、ファイル名の年度を繰り上げて保存するだけです。先ほども申し上げた「翌年にならないと分からない部分」は、赤字か何かで分かるようにしておきます。

 翌年、同じ係に就けば(その可能性は高いのですが)、その時の自分が楽できますし漏れも防げます。不幸にして違う係に回されたり他の学校に転任したなら、後任の総務係にものすごく誉めてもらえます。実際に会って誉められることはなくても、その人の心に必ず爪痕を残すことができます。
 どちらに転んでもいいことです。


【電子書式の充実】
 管理職になってから心がけたことのひとつは、電子書式の充実。簡単に言えば、毎年紙ベースで同じようにやってくるアンケートやら調査やらを、すべてWordやExelに作り変えることです。
 最近ようやく世間に知られるようになりましたが、学校に送られてくる文書、調査、アンケートの数は膨大です。大臣がひとこと「国や県から学校に送られる調査の量が膨大だそうだがどれくらいあるのか」と訊くだけで、「どれくらいあるか」というアンケートが降りてきます。

 特に4月当初に提出しなくてはならない書類は大変な量で、それを片っぱし電子ファイルに置き換えようとしたのです。中には学校名と数字をひとつ書いて提出すればいいだけのものもありますが、それらも電子化します。

 なぜそんなことを始めたのかと言うと、ひとつには私が教師にあるまじき悪筆で、自分の直筆は一字たりとも世間に出したくないという強い情熱をもっていたからです。
 35年ほど前、当時誰も持っていなかったワープロ専用機を購入し、校内で初めて活字で記入した通知票を出したのも、あるいは高校へ送る調査書を始めてワープロで印字したのも私です。そんな調子ですから、以後、どんな書類であっても送られてきたものは書式をWordやExelに写すのが最初の仕事でした。

 ところがやってみると、見栄えがいい以外に思わぬ利点がありました。
 ひとつは電子化することで、すべての書類が電子ファイルの中にセットで置かれることです。ワープロ文書と手書き文書が混在するとどうしても紙ベースでしか保管することができません。ところが電子ファイルで整理すると番号を振るだけで、どのくらいの書類ができ上っていて、何が欠けているかが一目瞭然なのです。

 さらに都合のいいのは運動会の総務係と同じで、翌年同じファイルを開けば、そこで直すだけで1組の書類が揃います。中にはびっしり書き込まなくてはならないものもありましたので、コピペだけですむ電子ファイルは実にありがたかったのです。
(それをやらせないために、毎年少しずつ書式を変えてくるというひどい文書もありましたが)


【自分のフンドシは洗って渡す】
 紙をなくさないというのは管理職の重要な能力ですが、それでも量が膨大なのでなくなる時はなくなってしまいます。知り合いの中に「人生の三分の一を書類整理に費やし、三分の一でものを探し、創造的な仕事は三分の一しかやっていない」と嘆いた人がいますが、どこも似たり寄ったりです。

 ただし私の場合は「自分の直筆は一字たりとも世間に出したくない」という強い情熱に支えられて、書類は比較的よく揃っていたのです。ですから他校の先生から電話をもらい、紛失した書類を回すよう頼まれることも次第に多くなっていきました。書類整理にもっとたけた人はいたはずですが、すべてを電子ファイルですぐに送れる人は少なかったのです。しかも私のフンドシはよく洗濯できている(不必要な情報が消されている)。
 人から譲ってもらった書類のコピーがすでに書き込み済みで、一字一句ホワイトで消して書き直さなくてはいけないというのが当たり前の時代でしたから、けっこう重宝がられたのです。

 私だって、右を見て左を見て、他人のフンドシを探していただけではないのです。

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2020/10/22

「オンラインは危険なので、大切な書類は、直接親が出そう」〜文科省が学校に容赦のない通知を出している@  教育・学校・教師


 官邸のハンコレス方針に従って、文科省も学校に押印の廃止を指示したという。
 親に押印させる書類なんて、さほどないと思うのだが、
 それでもやめて、オンラインで連絡できるようにするらしい。
 保護者には便利かもしれない。しかしこれで学校は死ぬ。

という話。
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(写真:フォトAC)

【私はキレた】
 私は頭の切れる人間ではありませんが、どうやら頭のキレやすい人間ではあるようです。
 昨日キレたのは「学校との連絡もハンコレスに 国がデジタル化へ通知」という朝日新聞の記事を読んだからです。

 それによると、
学校と保護者の連絡手段を「紙」から「デジタル」にし、ハンコは省略――。文部科学省は20日、全国の教育委員会や都道府県にそんな通知を出した。押印を省き、メールなどを使うことで保護者の負担を減らし、教員の業務効率化を図る。
 覚えておいていただきたい。「教員の業務効率化」です。

 続いて、
学校では行事への参加申し込み、アレルギーの確認、欠席連絡、進路調査など様々な連絡を書面で行い、必要な場合は押印を求めている。ただ、押印は学校と家庭の信頼関係を高める上で慣例的に使われているに過ぎず、法律で義務づけられてはいない。
 なるほど。

 そうした状況を踏まえて、通知は、
▽保護者へのアンケートはURLやQRコードをスマートフォンやパソコンで読み取って回答
▽欠席や遅刻の連絡は電話ではなく専用フォームで
▽学校のお便りは直接メールで配信

などのデジタル化の具体例を示し、可能なところからの導入を求めたとのことです。

文科省は「学校は印刷・配布業務が軽減され、保護者はスマホなどでいつでもどこでも閲覧できる」とメリットを説明する。

 また
児童生徒や他人が保護者になりすますのを防ぐため、個人IDやパスワードの設定のほか、デジタル対応が難しい家庭向けに、書面による連絡にも対応する配慮を求めた。

萩生田光一文科相は20日の閣議後会見で「あくまでハンコをなくすだけで、今まで通りの連絡ツールも残す。デジタルとアナログのハイブリッドで進めることが必要」と述べた。

 怒りと苛立ちで、今も、キーボードに乗せる指が正しいキーを打てません。


【押印は意味のない単なる慣習なのか】
学校では行事への参加申し込み、アレルギーの確認、欠席連絡、進路調査など様々な連絡を書面で行い、必要な場合は押印を求めている。
 要するに学校が印鑑を必要とする場面はそうたくさんはないということです。しかもここに上げられた例はすべて重要なものであって、その都度、覚悟や確認を必要とするものです。それをサインだけで済ませていいものか?

 親の知らぬ間に進路調査が子どもの意志だけで出されたり、アレルギーでもないのに牛乳嫌いの子が牛乳アレルギーを申告したり――逆にアレルギーがあるにもかかわらず他の子と違った扱いをされたくないばかりに「なし」と書いてアナフィラキシーを起こすような子が出てきたらどうするのか――。
 サインがあるとは言っても、普通の教員は大学で筆跡鑑定など学んできません。学校に筆跡を見分ける能力がない以上、押印がなくてもいいということは誰が書いても良いということです。大切な書類が子どもの意志だけで出されていいものか――。
 ちなみに私は保護者の連絡文で文字も文章もあまりに酷いので、本人もしくはその友だちが書いたものだと思い込んで、ひどく保護者を傷つけたことがあります。

 そこに押されているのが三文判でも、子どもにとって親の印を盗用したり押印を偽造するのは一定の覚悟がいることです。そこに確実にハードルがある。だからこそ押印は現在も保護者の意志を証明する強い力を持っているのです。

 逆に言えば、親の印を持ち出すような子は、どんな方法を用いてもやりたいことをやりますから、デジタル化したところで同じです。


【通知票はやめる、大切な書類は親が直接持ってくる】
 そもそも学校が保護者に押印を求めることなどほとんどないのです。そのわずかな機会ですら負担と考える保護者はごく少数でしょう。日本の保護者は、全体としてはそこまで愚かではありません。
 逆に
押印は学校と家庭の信頼関係を高める上で慣例的に使われているに過ぎず、法律で義務づけられてはいない。
がほんとうに文科省の言葉なら、信頼を高めることに効果のあるものでも法律で義務づけられていないことはやらなくていいと考える文科省こそ愚かでしょう。

 引用した記事の「押印」を「通知票」に変えてもまったく問題はない(通知票は公文書ではないが親と学校をつなぐために慣例として行っている)のですが、確実に教員の負担軽減となる通知票について、文科省は廃止を指示する気はまるでなさそうです。

 同じ「信頼を高める上で慣習的に使われている」ものであっても、押印はなくすべきものであって通知票はそうではないようなのです。

 なにがなんでも印鑑はなくす。その上で保護者とのやり取りは可能な限りデジタル化していく。そこにどういう意味があるのでしょう? 可能ないのでしょうか?

 例えば
児童生徒や他人が保護者になりすますのを防ぐため、個人IDやパスワードの設定
とは言っても、保護者がIDやパスワードを守ってくれる保証はありません。
「ちょっとお母さん忙しいから、欠席連絡、自分で出しておいて。IDは〇〇〇〇〇〇、パスワードは××××××だからね。先生にばれないようにやってよ」
「うん、スマホじゃなくてパソコンからやっておくよ」
 そのくらいのことはいくらでも起きそうです。そしてその子は好きなように行事に参加したりしなかったり、進路調査にも適当に答えて、好きな時に休む。家出をしたくなったら、朝のうちに母親の名前で欠席届を出せばいいだけで、夜までは探されずに済みます。

 やはりオンラインの連絡は危険です。しかしハンコレスは不可避なようですから、アレルギー調査や欠席調査、進路調査などの重要な書類については、印を押す代わりに保護者本人が学校に手渡しで届けることにしましょう。
 それなら確実です。

(この稿、続く)

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2020/10/20

「隣り百姓の伝統」〜本質的でない仕事では手を抜け  教育・学校・教師


 教育に関する実験的なことは外国にやってもらい、
 成果は我が国で利用すればいい。
 同じように無意味な努力をしないで済むように、
 いつも周囲を見回していることは多忙な学校教師の必須な条件だ。

という話。
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(写真:フォトAC)

【隣り百姓の伝統】
 昨日はオンライン学習なんて世界に先駆けてやってはいけない、オンライン先進国に経験を積んでもらい、十分に効果と安全性を検証してもらってから我が国で行うというのはどうか、というお話をしました。
 実は日本という国は、基本的にそういうやり方が似合う国なのです。いや、日本に限らず、農耕民族というものはそういうものです。

 この国には「隣り百姓」という言葉があって、これは主体性を重んぜず、お隣りの様子を見ては作業を進める農民の在り方を示しています。お隣が苗床をつくり始めたら慌てて自分も始め、田植えを始めたらこちらも準備を始めるというやり方です。

 私もここ2年あまりは一日置きのジョギングコースに畑道を入れ、プロの農家がキャベツを植え始めたら自宅でもキャベツを植え、ナスを撤去したらもうこれ以上の収穫は望めないと考えてナスを片付けるようにしています。キャベツやナスはいいのですがタネ播きをしている畑では何を撒いているのか分からないので足を止めて、「何を蒔いているのですか」と聞くことにしています。教えてくれないということはありません。そんなことを訊くのは素人に決まっているからです。

「ここ2年あまり」と書きましたが、ジョギングを始めたのが2年前で、それまでは農家の様子などあまり目に入らなかったのです。しかしもっと早く気づくべきでした。「隣り百姓」は素人に最適の方法で、おかげでここのところ特に秋冬の作物生産に腕を上げ、これから楽しみなものもいくつかあります。


【狩猟民族のモットーは「出し抜け!」】
 ところが狩猟民族は違います。「隣り狩り」「隣り採集」というわけにはいかないのです。
 マンモスだのオオツノジカだのといった大型の獲物を狙うときは皆で出かけるにしても、小動物や木の実を取る時は、人のあとをついて行ったのでは話になりません。日本でもマツタケ狩りで、人のあとについていってもダメでしょう?

 狩猟民族のモットーは「他人を出し抜け」です。人より早く起きて雪の中のウサギの足跡を追ったり、渡り鳥が帰ってきたら誰よりも早くいって狩場の良い場所を押さえなくてはなりません。たくさんの栗を拾ってきた人に落ちていた場所を訊いても、教えてくれないかすでに全部拾われたあとです。
 以前、ブッシュ大統領(父)の夫人のバーバラさんの言葉として「ブッシュ家の人間は負けることに慣れていないのです」を紹介したことがありますが(*)、アメリカの子どもたちが小さなころから「勝ちなさい」「他人を打ち負かして上に立ちなさい」と教えられて育ちます。いかにも狩猟民族の末裔らしい考え方です。
2007/2/9「勝つことを強いられる国の凄さと不安」〜バーバラ・ブッシュ元大統領夫人の言葉から

 しかし私たちは農耕民族なのですから、右顧左眄してなかなか動かないことを恥としてはいけないのです。この件に関して、私は自主性を発揮したばかりにひどく損をしたことがあります。
 

【まともにやれば損をする――こともある】
 今から35年ほど前のことですが、文科省が突然、「学校はすべての教科について、細かな年間計画を立てるように」と言い出したことがあります。 どういう経緯があったのか――まだ当時は目の前の仕事で精いっぱいの新人だった私は覚えていないのですが、とにかく1年間のすべて授業の、行う時期、単元ごとの授業時数、単元の目標、1時間ごとの目標、授業の流れ、使う資料について、事細かに記述して提出せよ、ということだったのです。
 そのころ私は小さな中学校の社会科教師で、同じ教科にはもう一人の教科担任がいたのですが、初老の大先輩でとてもではありませんが「分担しましょう」とは言えず、地理・歴史・公民の年間指導計画(カリキュラム)を3カ月かけてひとり作ったのです。とんでもない労力でした。

 ところがしばらくして、社会科教師の集まりにみんなで持ち寄ろうという話になったとき、のぞき込むと各校のカリキュラムは似たり寄ったりで、中には体裁のほとんど同じものまであったりします。あまりにもそっくりなので怪しんでいると、
「Tさん(私のこと)、それ、自分でつくったの?」
 私がびっくりしながら、
「ええ、つくりました」
と答えると、
「そりゃあ大変だったろう。オレなんかA中の〇〇先生があっという間につくったって聞いたから、もらいに行って名前だけ書き直して出しちゃった」
「・・・・・・・」

 考えてみたら同じ市内で使っている教科書はみな同じ、授業は教師の個性だと言ってもやっていることは大同小異です。どうしても個性を出したかったら、誰かのカリキュラムをもとに手を入れればいいだけのことです。

 そう言えば私が半分もできていない時期に、何人かの同業者から、
「Tさん、どのくらい進んだ?」
とかいった問い合わせの電話が入ってきていたのです。もしかしたらあれも全部、他人のフンドシで相撲を取ろうという話だったのかもしれません。

 この話には後日談がふたつあって、ひとつは文科省がそれきり忘れてしまったみたいで、そののち今年やってみた結果はどうだったかとか、改訂をどうするかといった話は一切なく、私の作った大部の「カリキュラム」は倉庫の棚に眠ってしまったのです。もうひとつは数年後、教科書会社が自社の教科書を採用してもらいたいばかり精緻なカリキュラムを作成して、日本中の教師の努力を水の泡にしてしまったこと――あの膨大なエネルギー消費は何のために必要だったのでしょう。


【本質的でない仕事は手を抜け――経験は役に立つ】
 ただし、やがてこの体験は生かされることになります。
 2001年から2002年にかけて、私たちは異常な努力を傾けて「評価基準」なるものを作りました。それは学校で行うすべての授業時間について、
「その時間でどういった能力をつけさせるか」
「その能力がついたかどうかをどう判断するか」
「十分つかなかった場合は、どう対応するか」
などを盛り込んだ学習プログラムの集大成です。したがって各学年電話帳一冊にも匹敵するような膨大な書類づくりになりました。一時間の授業中に最低2回は児童生徒個々の学習状況を評価しなくてはならないという非現実的なもので、もちろん今は書棚の奥でほこりをかぶっています(そうでなければ燃やされている)。

 私は十分に知恵のついた年齢でしたので、このとき真っ先にやったのは近くで研究指定校になっているところを探すことでした。大きなプロジェクトですので絶対に9月ごろまでに評価基準を完成させ、10月あたりに研究発表をする学校があると考えたのです。
 その年の10月、思った通り私はまんまと「評価基準」を丸ごと手に入れ、表紙を付け替えて自校のものとしました。このときは教科書会社の対応も早く、翌年には教科書の準拠した「評価基準」が出て来ましたので、ムダな努力しなくてほんとうによかったと思いました。

 「隣り百姓」はこの国では正道なのです。

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2020/10/19

「『実験は外国で、成果は我が国で』でいいじゃないか」〜オンライン学習ならでは問題が起こっているらしい  教育・学校・教師


 新聞によると、IT先進国の韓国ではオンライン学習ならではの問題が出ているらしい。
 いずれも私たちの想像を越えるもので、実際に始めて見ないと分からないことばかりだ。
 やはり新しい教育のやり方は諸外国で試してもらい、成果は我が国で、
 それでいいじゃないかと思うのだが――、

という話。
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(写真:フォトAC)

【学校も教員も臆病でいい】
 前々から申し上げていますが、学校教育というのは常に大胆で先進的なものであっては、いけないと思っています。
 教師や学校にとってはどんな失敗も間違いもすべて将来への糧となりますが、子どもの方はかないません。その子にとってそれぞれの学年、それぞれの1日、それぞれの単元は一回こっきりのものであってやり直しが利かないのです。もちろんまったく不可能と言うわけではありませんが、スポーツでよく言う「変な癖」をつけてしまってから直すのは、真っ白なキャンバスに絵を描くよりはるかに難しいことなのです。

 ですから学校教育において何か新しいことを始めるとき、教師は常に及び腰になって、一歩一歩瀬を踏むようにおずおずと進んでいくのです。それを臆病とか怯懦とか言うのは、自分のために誰かを犠牲にする恐ろしさを知らない人たちです。

【オンライン学習ならでは問題が起こっているらしい】
 先週の韓国革新系新聞(ということは政権寄り)の「ハンギョレ」にこんな記事が出ていました。
2020.10.16課題提出させたら18禁映像アップロード…遠隔授業で「教師へのセクハラ」増

 どんな話かというと、取っ掛かりは、オンライン授業で生徒に課題を提出させたら、アダルトビデオの映像が送られてきたという事件です。宿題の提出ですからもちろん犯人ははっきりしていて、その子は校内奉仕、特別教育の処分を受けたそうですが、こんなことはオンライン授業後進国の日本では起こりえません。電話がなければ特殊詐欺の大部分なくなってしまうように、オンライン授業の問題性も経験を重ねなければ浮かび上がってこないのです。韓国のようにインフラが整備され、かなりの授業がオンラインで行われて初めて分かることです。

 もちろん前述のような「犯人が見え見え」の事件は簡単には起きないでしょう。しかし次の、
生徒がオンライン授業のリンクとパスワードを流出させ続け、部外者が授業に入ってきてわいせつ行為をする事件が発生した。
は深刻です。一度流失したリンクやパスワードは、いつ、だれが、どのように悪用するか分からないからです。
 教師が授業を始めようとコンピュータを開いたら、見知らぬ生徒が何人もお面をかぶって座っていてわいせつ画像を示している、そんなふうではかないません。
 もちろん大多数の子どもはきちんとリンクやID・パスワードを管理すると思いますが、日本は1万人にひとりという稀有な愚か者が12600人もいる国です。そのうちの誰かひとりが不用意に、あるいは意図的に情報を流出させれば、稀有なことであっても被害は甚大です。

 三番目の事例、
授業画面をキャプチャして他のチャットルームで共有し、教師に対する性的発言を行ってもいる。
となると、これはもう明らかな犯罪です。
 もちろん教師の顔写真などはオンライン授業がなくても集められますが、授業風景からキャプチャリングする手軽さを考えれば、現在はまだまだ抑制が効いているとも言えます。


【教権侵害という概念】

 ところで、ハンギョレの今回の記事には「教権侵害」という聞きなれない言葉が出て来ます。
「教権」を調べると「教師が学生・生徒に対してもつ権力」のことだそうで、それ自体は分かるのですが「侵害」とセットになるとピンときません。「侵害」と相性の良いのは「権利」であって「権力」ではないからです。

 どうやら韓国には「教師のもつ権力は侵したり害したりしてはいけない」という考え方があるようです。だから、
処罰のみに焦点を当てた対策を繰り返しているから、このような教権侵害行為が根絶されないのだという指摘も出ている。
といった表現も出てくるのです。
 そこには儒教的な考え方が背景にあるのでしょうが、私は少し羨ましく思いました。

 日本だったらまだうら若い女性教師のもとにわいせつ画像が送られてきても、問題はシステムの脆弱性に気づかなかった学校や、きちんと生徒を指導してこなかった、あるいは生徒との間に十分な信頼関係を構築できなかった女性教師本人にあると考えられがちだからです。
 日本の場合、子どもは同じ子どもを餌食にしない限り、どこまで行っても純粋で無垢な存在です。嗚呼!


【テストは外国で、成果は国内で】
 横道にそれました。
 教育評論家の親野智可等氏によると、韓国以外にフランス・アメリカ・シンガポールといったところがオンライン学習の先進国だそうです。
2020.04.09『日本のコロナ「学力格差」を止めるための方策』オンライン授業「後進国」日本は何をすべきか

 ほんとうかどうか知りませんが、事実だとしたら、まずそうした国に経験を積んでもらい、十分に効果と安全性を検証してもらってから我が国で行うというのはどうでしょう。医薬品や治療法、いくつかの科学技術についてはいつもそうしてきたはずです。
 オンライン学習だって同じでいいと思うのですが、それでも日本が先んじてやらなくてはならないとしたら、そのわけを知りたいものです。

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2020/10/16

「具体性がなくて冗長で閲覧数の減ったブログをどう立て直すか――よりも大切なことがある」  人生


 作家の林真理子さんがエッセイの連載1665回でギネスに登録された。
 私のブログは今日で3565回。
 ギネスとは言わないが、もう少し読んでもらえてもいいじゃないかと、
 愚痴が出そうになる時もある。しかし――、

という話。
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【嫉妬:林真理子、ギネス世界新記録に認定される】
 林真理子さんがギネス世界記録だとか。
「週刊文春」に掲載中のエッセイ「夜ふけのなわとび」が7月2日時点で1655回を記録し、「同一雑誌におけるエッセイの最多掲載回数」としてギネス世界記録に公式認定されたというのです。
 おめでとうございます。

 しかし全くの同世代、若いころから相当に意識してきたこの人の活躍に、私はやや素直になれない自分を感じています。林さんが1665回なら、私のブログは今日で3565回です。数だけなら2倍を優に超えています。才能に差はあるにしても、一生懸命書いているのですから年に2〜3回くらいは、自身も「ちょっと良かったかな?」程度には書けているものもあるのです。もっと評価されてもいいのじゃないか――ふとそんな気にもなります。

 「夜ふけのなわとび」は過去34冊が文庫化され、累計部数は426万部に達しているといいます。印税ってどのくらい入ってくるのでしょう?
 実は印税なんてどうでもよくて、我が家はドケチの家庭ですからいくら大金が入ってきても使えないので同じです。しかし462万人が(たとえ1行でやめる人もいたにしても)読んだというところは羨ましい。本来の「週刊文春」で読んだ人も含めると、延べ何百万人が彼女のエッセイに触れたのでしょう。


【具体性がなくなって冗長になって、閲覧数が減った】
 もとは自分の勤務校で学級新聞ならぬ職員室新聞みたいな形で書いていた文を、そのままブログに投稿していたものです。そのころは現場にいましたから話題も新鮮で、情報も早く、なにより児童生徒・先生・保護者を見ながらでしたので具体性に富んだ文章が書けていました。そのうえ今ほど暇ではなかったので、原稿用紙3枚以内で収まる程度の内容しか書けませんでした。その分、読む方も楽だったのです。

 それが定年退職となってさらに第二の仕事も辞めてしまうと、好きなだけ考えて、好きなだけ調べて、好きなだけ書いていればいいのです。その代わり子どもや学校の具体性はなくなり、文はひたすら長く、だらしなくなります。さすがに原稿用紙15枚分以上になると自分自身読み直すのが嫌になります。
“いわんや、お客様をや”です。

 一時期は250近くもあった閲覧数はいつの間にか半分以下に減ってしまい、書くために費やす時間やエネルギーは倍以上になっているので、さすがに割に合わないと、本気で対応を考えるようになりました。


【閲覧数を増やすためにしてきたこと】
 そこでまず始めたのがブログランキングへの参加。「にほんブログ村」と「人気ブログランキング」に登録して、記事にリンクを張るようにしました。
 おかげで新しいお客様も何人かみえましたが、それで閲覧数が飛躍的に増えるわけではありません。
 考えてみたら、ブログランキングからこちらの記事に来られる方の大部分はご自身も登録しておられる。この人たちは私と同じように「自分のブログの閲覧数を増やすのが目的で、自身のブログの充実に忙しく、他の人の記事まで熱心に読んでいる暇のない人たち」なのです。
 ブログランキングで閲覧数を増やすのは、どうやら正道ではないみたいです。

 続いて行ったのはツイッターへ更新情報を流すこと。
 これもよく考えたら、
「ツイッターのユーザーは短い文でバシッと訴えられるのが好き。うっかりブログに誘導されてそこで長ったらしい文章に出会ったら二度と来てくれない」
という原則があります。
 #(ハッシュタグ)をつけたコメントを入れたりさまざまに工夫したのですが、フォロワーが「9人」のままではどうしようもありません。
(ついでですが、本名でやっているフェイスブックの「友達」は54人、インスタグラムはフォロワー数4。長く日記として使っているミクシィは非公開と言うこともあって「友達」ゼロ。最近は出なくなりましたがかつては「現在、お友達が0人です」と繰り返し表示され、何か人格に問題があるみたいで、情けなくて泣きたくなりました)

 もしかしたらteacupのブログからツイッターへの投稿はノー・イメージ(記事中の写真がアイコンにならない)になってしまうので印象が薄いのかもしれないと考え、あれこれさんざんためした挙句、結局teacupではムリということになりHatenaBlogへの移行を考えました。それでノー・イメージの問題は解消しました。

 ところが、
 記事は移行できたのですが画像が行かない。しかもかなりの数の記事にレイアウト崩れが起こって改行がまったく行われないものまであったのです。記事は3000以上もありますから、全部読み直して手直しというわけにもいきません。
 その結果Hatenaをミラーブログとして両方を運営する羽目になってしまい、検索から来られる方が一部Hatenaブログの方へ誘導されてしまい、teacupブログのお客様はさらに減ってしまいました。

 ただし悪いことばかりではありません。
 Hatenaブログの方が検索でヒットしやすいのか、そちらの方で閲覧数が多くなり、現在は両方合わせて1日200アクセスほど、結果的には増えたことになりました。


【感謝!:もっと大切なことがある】
 それにしても林真理子さんは文庫本だけでも34冊、累計426万部。それに引き換え私は――と改めて自分のteacupブログのカウンタを見ると49万アクセスほど。Hatenaブログに5万ほどありますから、このド素人の、クソ長い記事を読んでくださる方がのべ55万人近くもいてくださるのです。

 これはやはり感謝すべきでしょう。
 通常の意味でも、語の本来の意味でも「有難い」ことです。

 皆さま、本当にありがとうございます。
 これからは極力、短く書くことを心掛けて頑張りますから、どうぞよろしくお願いします。
 不平不満を言わず、まっすぐ生きていきます。


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2020/10/15

「在宅勤務、あの妻(夫)と24時間」〜ノスタル爺の不安と郷愁A  政治・社会・文化


 新型コロナ事態が終わっても、
 可能な限り、仕事はリモートワークでという流れは変わらないだろう。
 しかしそれが向く人、向かない人、そして向きすぎて心配な人もいる。
 ある意味、在宅勤務は家庭にこそ課題がある。

という話。
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(写真:ファトAC)


【ポスト・コロナに残るもの】
 新型コロナ禍という緊急事態で、変えざるを得なかったこと、変えなくてはならないと身にしみてわかったこと、やっと変えることができたこと、さまざまにあります。
 リモートワーク、オンライン会議、印鑑をなくすこと、学校の児童生徒ひとり一台分のコンピュータを用意すること、マイナンバーを作っておくこと、やっぱり感染予防にマスクは役立つという認識、グローバリゼーションの限界、ペーパーレスの推進、キャッシュレスの推進等々。

 そのうちのいくつかは新型コロナ禍が終わるとともに元に戻り、いくつかは戻らない――と書くつもりで数え始めたのですが、こうやってみるとほとんどが元に戻らない、大きく動いて世界は変わる、という気がしてきます。

 もちろんコロナ禍だといっても魚の取り方だの農業の仕方などほとんど影響を受けなかったものもあれば、学校のように長い休業はあったものの、結局リモートワーク(学習)は緊急避難的に行われただけで、校舎や校庭をなくしてしまうほど大胆な変化は起こらない分野もあります。
 一方、富士通が社員の8割を自宅勤務に切り替えてしまったように、コロナを奇貨として大胆な改革をして元に戻さない企業もあります。

 私などは「学校は個人営業主の集合体、だからいくらでも残業や持ち帰り仕事ができる。しかし企業はチーム・ワークが原則だから、基本的には全員で残業をするかしないかの二者択一。持ち帰り仕事はない」などと教えられてきましたが、オンライン会議で段取りをつけてしまえばあとは一人でできる仕事が山ほどある――そういうことに気づいた企業が数多くあったのです。
 そうなると企業倫理として、通勤手当や単身赴任手当、引っ越しの手当てなどはまったく馬鹿らしくなります。
 したがってオンラインによる在宅勤務は、これからもどんどん進んでいくはずです。


【それでも私には向いていない】
 しかしそれでいいのかとも、ノスタル爺は考えます。
 基本的に年配者は見通しのつかない新しいことを嫌います。何十年もかけて身に着けた技能がまったく通用しない世の中を喜ぶ人はいません。したがってそういう自分自身の本能的な怖れも差し引いて考えなくてはならないのですが、20代、30代、40代のころを思いだして私にできるかというと、どうもできそうな気がしてこないのです。

 20代で独身の私には、ある意味でリモートワークは向いていました。新しい人間関係をうまく切り盛りできずいつも苦労していましたから、モニターの中でだけ、人と付き合っていればいい生活は性に合っていたはずです。恐ろしく合います。
 仕事の質にもよりますが、そこでおそらく私は誰よりもよく働きます。8時間とは言わず、10時間でも15時間でも、仕事さえもらえればいくらでも働き続けます。仕事をしている限りは、外に出ずにいられるからです。
 けれど毎日宅配で三食を済ませ一歩も外に出ない生活がいいはずはありません。20代の私にはリモートワークは合いすぎるからダメなのです。

 30代の私はまだしも、40代の私は公私ともにとても充実していました。仕事上の大部分のことに怯えることなく対処できるようになっていました。20代のころの反動みたいに人間が面白く、あちこち駆け回って問題解決にあたっているという感じで、家でじっとしているなんて真っ平でした。どこかに私を必要としてくれる人が絶対いてくれるはずだと単純に思えた時期、リモート・ワークで縛られるなんてまったくかないません。

 50代は若い同僚を見守る時期です。目の隅でなんとなく追って行って、助けたり口出ししたり、相談に乗ってやったりするのが中心の仕事となります。オンラインでそれが可能かどうかわかりませんが、いま突然やるとなったら同僚の小さな信号を見落としそうでほんとうに不安です。
 リモートワークはおそらく私には向いていません。しかしもちろん一般化できることでもありません。

 ところで、ここまでは社会人としてのリモートワークについて考えましたが、家庭人としてはどうでしょう。


【リモート・ワークはむしろ家庭に問題】
 ずっと共稼ぎで家事も半分以上やってきましたから、夫婦共稼ぎのリモートワークでもその点ではうまくやって行けるでしょう。しかし同じ妻(と言うのも変ですが)と24時間一緒にいる生活を延々と続けていけるのか――、それは疑問です。

 もちろん農家を始め個人商店や町工場には24時間夫婦がいくらでもいますから、初めからやっていればどうということはないと思うのですが、今からだとどうでしょう。私の妻などは、
「タンスにゴン! 亭主、元気で留守がいい」
などと20年も前のギャグを平気で口にする人です。その人と生活をすり合わせて、お互いにやっていけるのか――。

 これからはサラリーマンと結婚するにしても、勤務形態を確認してからでないとさまざまに目算が狂う時代なのかもしれません。家を購入するにしても子ども部屋と同時に、夫や妻の仕事部屋も確保しておかなければならない。子どもにも気を遣わせることになります。

 そうした意味で、リモート・ワークはむしろ家庭を整えることの方がよほど大変な問題なのかもしれません。

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