子供の頃(8〜9歳の頃)、父のバイク(カブ号?)に乗せられて、新飯塚の自宅から直方付近まで出かけたことがあった。遠賀川に架かる筑豊電鉄のガード下で写した写真が残っている。鉄橋上には単行の電車が写っている。筑豊電鉄が筑豊中間から直方まで延長開業した直後だったと思う。鉄道線路に架線があるのが、蒸気機関車ばかり見慣れた私としては新鮮だった。
その帰り道、バイクでどこをどう走ったのかは定かではないが、一筋の線路と出くわした。そこには先ほど見た筑鉄と同様に架線が張られていた。電化されていたのだ。蒸気機関車しか走らない筑豊本線でないことは間違いない。後藤寺線や上山田線でもない。「あれは何という鉄道だろうか?」こんな疑問を抱いたが、その後調べるわけでもなく、そのまま時が過ぎて半世紀が経った。
その時の記憶を喚起してみると、架線のある鉄道を見たあと、麻生本家の前を通過して新飯塚駅前の我が家に帰った。本家の<お坊ちゃま>は東京にいたのだろうが、私と同級生だった分家の麻生君も同じ敷地内に住んでいたので数回遊びに行った記憶がある。その麻生家のお屋敷の先に電化線はあったことになる。おおまかな記憶の道筋は以上の通りである。
最近、炭鉱鉄道について調べる機会があった。それによると、この鉄道は三菱鉱業鯰田五坑にあった石炭運搬のための坑外軌道で、電化されていたのだ。凸型電気機関車が使われており、現車は直方市の石炭記念館に保存してある。
線路は筑豊本線鯰田(なまずた)駅から分岐し、後藤寺線の下鴨生駅までを結んでいた。下鴨生駅付近には炭住街があったという。全く知らなかった。廃線ファンが作ったHP等があり、かつての栄華の跡が部分的には偲べる。しかし、石炭産業全盛期から既に半世紀。いまその跡を探訪することはなかなか難しいが、石炭運搬用の私有専用線が電化されていたとは今更ながら石炭産業全盛期を思わせる。
三菱鯰田は、三菱としては筑豊最後の炭鉱だったそうだ。そういえば、飯塚市立・立岩小学校1年生の時の遠足は、「鯰田一坑山ノ神」という神社に文字通り歩いて行った記憶がある。炭鉱にはそれぞれ「山ノ神」が祭られていた。
三菱鯰田以外にも専用線には電化したところがあったという。以下は、一例である。
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三菱鯰田五抗
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直方市石炭記念館
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麻生産業吉隈炭鉱
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三井石炭鉱業山野炭鉱
追記:きょう(3/16)の朝日新聞朝刊の別刷り(Be)で、三輪明宏の「よいとまけの歌」が特集されていた。背景で使われていたのは、飯塚の炭鉱跡の紹介だった。私が飯塚に住んでいた半世紀前は石炭産業が斜陽化して閉山に次ぐ閉山の時代だった。「シッタイ」=失業対策事業の日雇いに出て生計を立てる家がたくさんあった。飯塚駅の背後にそびえる住友忠隈抗のボタ山は、いまは木々が生い茂り、石炭ガラの捨て場だった面影はなくなってしまった。

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