本日は京都五山の送り火でした。
この行事は、お盆の間に家族のいる里に下りてきていたご先祖様の御霊が浄土へ帰る道しるべとして、生きている人間の手で山に送り火が焚かれ、祖先の御霊は迷う事なく山の向こうの浄土へ帰っていきます。
また、巷では「千の風になって」という歌が静かなヒットとなっているようです。
「会社をつくろう」「車を買おう」「土地を買おう」「家を建てよう」「子供を育てよう」等など、人生の中で勢いがあり忙しいうちは良いのですが、人生も折り返し後半戦に差し掛かってきますと「死」というものが見え始めます。
一日、いや、一秒たりとも休む事無く「死」という暗黒の淵を目指し静かに進んでいる事実を認識してしまうのです。
この「死」という暗黒の淵をどのように見るか?、ただの暗黒のままでは「死」が恐ろしく感じてしまいます。そこで出てくるものが、死生観です。
その日本人の死生観の現われが冒頭の事と結びついてきます。
日本の土着信仰では、死者の霊は家族を見下ろせる近隣の山の浄土で今まで住んでいた地域を見守りながら死後を送るというものです。
ですから死を暗黒の淵とは考えずに、生前と形を変えた状態で愛する家族の暮らす里を見守りながら、死後の世界を過ごしていると考えられていました。
そういう死生観の中で、生きている人間はご先祖様が居ると考えられる山を、今後、自分自身も家族も行く山を大切にしました。
そう考えますと日本人の景観形成と死生観と結びついており、土着信仰が希薄になる前の日本は人間の手の行き届く地域が公園のような手入れの行き届いた美しい景観を呈していたといわれています。
残念ながら今の日本は、土着信仰も薄れ、経済性の薄い山は放置され荒れた状態となっています。
日本で最も景観条例が厳しいであろう軽井沢近隣でも、建物に対する道路や隣地からの後退距離や、使用する色、軒の出や屋根勾配を規制するという希薄な規制が現状です。
本来、日本人が持っていた死生観と景観育成、今後どの様に生かしていけるのでしょうか。
死後の状態が保障されているから現在を精一杯生きる事が出来ると思います。しかし、現在は現状を生きる事が精一杯で死後は暗黒の淵のままではないかと私は感じます。
死後、あなたは何処の空を飛びたいとお考えですか?
一寸、スピリチュアルなお話となりました。今日はお盆の送り火です。お許し下さい。