2021/9/11

境界を越えるバス/関八州編(その1)  バス

前記事で予告した「新シリーズ」です。以前に似たようなシリーズを始めかかってポシャってるような気がしますが、心機一転、新シリーズです。

境界を越えるバス 関八州編(その1)
相模・伊豆国境 千歳橋

※類似シリーズを同時展開するかもしれないので、その時はご了承を^^;;

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県境の千歳橋を渡る東海バスA51系統熱海駅〜湯河原駅線
※系統番号の"A"は、熱海Atamiの"A"です。

小田原から伊豆下田を結ぶ国道135号線上の、神奈川県足柄下郡湯河原町と静岡県熱海市の境目の風景です。相模・伊豆の旧国境でもあり、すなわち、ここから先は関八州=概ね関東地方の外になります。

背景にある道路標識が読みにくいですが、近寄ってみると、こんな感じになっています。

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県境のロードサインと共に、ここで分岐する有料道路「熱海ビーチライン」への案内が提示されています。メインルートの国道135号線は、この先県境にふさわしく?、海沿いとはいえ段丘の上?中腹?を通るため、カーブや勾配がそこそこきつい道なので、初心者and/or週末ドライバーの方々にはビーチライン一択、、、いや、通行料金(6.1kmで470円)を鑑みると、そうは言いきれないところが悩ましい...

県境のロードサインの裏側は、こうなっています。
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どういうわけか、神奈川県/湯河原町を示す標識が見当たりません。見落としただけかなぁ?

肝心の橋の全景の写真を撮り忘れてたことに今更気づいています。この橋がかかる千歳川が神奈川/静岡の県境なのですが、ぶっちゃけ、その気になれば(平常時ならば)歩いて渡れる程度の川です。実際、鮎釣りの方々が川の中に入っていました。

しかも、(広義の)湯河原温泉郷は、この川=県境の両岸に跨っています。どうしてこうなったのか、調べてみた「調査報告書(もどき?)」を貼り付けて?おきます。


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神奈川県と静岡県の県境は、海岸沿いの地域では熱海市と湯河原町の境界でもあり、湯河原温泉の西側を流れる千歳川に設定されている。が、広義の湯河原温泉郷は川の西側、つまり、静岡県熱海市の泉地区にもはみ出している。言い換えると、県境が湯河原温泉郷の中を横切っている、ということになる。千歳川西側を「伊豆湯河原温泉」と呼んで区別する場合もあるが、実態は県境を挟んで一体化した温泉郷となっている。実際、湯河原温泉での花火大会の際には、神奈川県足柄下郡湯河原町の側だけでなく、静岡県熱海市の側でも同時に行われている。

泉地区で少し山を登った辺りに、熱海市の開発による「ゆずり葉団地」がある。ここから熱海市中心部方向へは、静岡県道102号十国峠伊豆山線が存在するが、路線バスは湯河原駅方面としか通じていない。泉地区の中心は千歳川沿いで、人の流れや文化圏としてみた場合、泉地区は熱海よりも湯河原の方と結びつきが強そうである。

この部分の県境は廃藩置県の際に強引に設定されたものではなく、相模国と伊豆国の国境を踏襲している。少なくとも江戸時代以降は湯河原温泉のかなりの部分は相模国であり西側の一部は伊豆国であったということになるが、地域としては一体であったと思われる。

なぜ、このような事態になってしまったのか?

その謎を解く鍵は、熱海市泉地区の南側に隣接する伊豆山地区に存在する「伊豆山神社」にある。もっといってしまうと、江戸時代には、現在の熱海市泉地区は伊豆山神社の領地であったためである。この当時、現在の湯河原・真鶴地区は相模国小田原藩の領地であった。泉地区の住民も、小田原藩に年貢を納めていたため、国境をどこにするかということでは相当もめたらしい。

ただ、伊豆山神社には、真偽のほどは定かではないが、源氏の重要人物である源頼朝が暗殺されそうになった際に、彼を匿って助けたという伝説がある。そして、徳川家は清和源氏の末裔であると名乗っている。余談であるが、伊豆山神社は源頼朝が北条政子とデートした場所であり、こちらはほぼ真実であると推定されている。このため、徳川幕府は、伊豆山神社の領域を相模国にする、とは強く言えなかったという説がある。

実際、徳川家康の前の代の将軍、豊臣秀吉は、小田原征伐の際に、北条氏に加担した伊豆山神社を焼き討ちしたばかりでなく、太閤検地の際に泉地区を相模国にしている。そして、明治政府は廃藩置県の当初、相模国の西部の足柄上郡・足柄下郡を、伊豆国とまとめて足柄県とした。ただ、後者はやや強引だったようで、数年経たずして、足柄県は分割の上で神奈川県と静岡県に編入された。

なお、律令制の国が制定された当初、このエリアは人口希薄の地であったため、境目はどうでもよかったらしく、曖昧なままになっていた。伊豆山神社の起源は、紀元前5〜4世紀まで遡ることができるが、現在の場所に落ち着いたのは西暦836年、平安時代になってからである。所領を与えられたのは、源頼朝が鎌倉幕府を開いて以降1200年代になってからである。その後は小田原藩の当主であった北条氏の加護を受けるが、1590年豊臣秀吉による小田原征伐の際に社殿を焼失する事態になったのは先述した通り。江戸時代に入ると、熱海も湯治場として著名になり、徳川家の御用達にもなったこともあって、江戸幕府の歴代将軍から所領の寄進を受けている。明治期に入って以降は天皇家とのつながりが深く、昭和天皇が皇太子だった頃に境内に松を手植されている。

行政区分としては、1878(明治11)年に神奈川県足柄下郡宮上村のうち伊豆山神社領の字泉と稲村が、静岡県賀茂郡泉村として分立した際に決着がつく。1889(明治22)年の町村制の施行時に、伊豆山村・初島と共に熱海村と合併。1891(明治24年)に熱海町になり、1896(明治29)年に所属郡が田方郡に変更された後、1937(昭和12)年に南隣の多賀村と合併して熱海市が発足。1957(昭和32)年に更に南隣の網代村を合併して現在に至る。

一方の宮上村は1889(明治22)年に近隣の門川村、城堀村、宮下村と合併して土肥村となり、1926(大正15)年に町制施行して湯河原町となる。1955(昭和30)年に隣接する福浦村・吉浜町と合併し、現在の領域となっている。

なお、地図によっては現在の熱海市泉地区の中に「元宮上分」「元門川分」と示された地区が表示される場合がある。おそらく、元々は宮上村・門川村だった地域が泉村に分立した地域であると推定されるが、この部分は未調査である。


長文を読んでくださったお礼?というわけではないのですが、現地関連?画像を少々。
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伊豆山神社境内
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境内から見る伊豆山集落
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伊豆山神社の御朱印帳




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