「丹前」で町を歩くようになった。暖冬で分厚いコートを着るより、近くのコンビニに行くには綿入り広袖(ひろそで)の「丹前」は便利だ。
ところが……「ヘェー、珍しい格好だな」と思っているのか、子供たちが当方を振り返る。旅館に泊まったことがない、東京の子供たちは「丹前」「どてら」を着たことがないのか?
「丹前」は江戸前期、もっとも流行したファッションである。神田佐柄木(さえき)町・堀丹後守屋敷前(つまり約して丹前)に湯女(ゆな)風呂(別名・丹前風呂)という人気スポットがあった。昼間は湯女があかをこすってくれるが、夜になると、金屏風(びょうぶ)を立て、美しく着飾った湯女が三味線、小唄をうたい、客と一夜を過ごす。
ナンバーワンの湯女・勝山が初めて着たファッションが「丹前」。派手で袖が広い。侠客(きょうかく)は好んで「丹前」を着る。髪形は「勝山髷(まげ)」。丸髷の一種で、元禄のころ、一般女性がこの髪形を結った。セックス産業が文化を作る。
江戸の中心部には「元吉原」(東京・堀留辺り)の遊郭があったが「湯女風呂」の方が圧倒的に人気だった。
ところが明暦3(1657)年、死者約10万人の振り袖火事。江戸市街は丸焼け。幕府は江戸城天守閣修復をあきらめ、これを機に都市整備を始め、公娼(こうしょう)「元吉原」は浅草日本堤の田んぼの中に移転した。と同時に江戸の中心街から約200軒の湯女風呂は一掃されてしまう。湯女文化の終焉(しゅうえん)?
ところが、歴史は皮肉である。昭和32(1957)年売春防止法施行。「吉原」が選んだ道は特殊浴場(ソープランド)だった。
この冬、その湯女文化に地殻変動が起こった。「あってもおかしくない」とも思いつつも「あっては世も末」と思っていた「女性専用ホストソープランド」が福岡の博多にオープンした。ラウンジコーナーでホストと“お見合い”して「好みのタイプ」を選び、風呂場に入る。どんなサービスが行われるのか僕は知らないが、料金は90分3万円である。
性の欲望は限りない。
1966年、東京都千代田区永田町の首相官邸裏の隣接地に特殊浴場新設の申請が出された。当時の佐藤栄作首相は激怒し、風俗営業等取締法を改正し風俗地域が限定された、と聞いたが「性」が歴史を変え、歴史が「性」を変える。「丹前」が死語になっても。(専門編集委員)

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