
春の叙情の本質は何だい?(以下架空問答です)T君答えて。
T「え?それが新しい出発、芽吹き、命の誕生……そんな生き生きとしたものへの讃歌でしょう」
T君は若いなぁ。もしくは万葉的だね。爛熟した平安貴族からするとだね……

卒業旅行の一団を引き連れて、地震直前の兼六園を訪れたとき、その梅園に咲いていた白梅。品種名は……忘れた(笑)。

そして、八重咲きの色の濃い紅梅。バックには常葉の黒松。咲き誇っていました……と言いたいけれど、北陸の三月にも既にカツカツと春のハイヒール音は響いているわけで、白梅の写真をよく見ると、既に散り乱れた花弁も目立ちます。そうです。如何に言うても、既に三月下旬。梅の花を惜しみ、桜を待つ季節。さすがに桜の蕾はまだこの北の地では固く、場つなぎにというわけではないが、ここはまだ梅の香りに包まれている。
ほどなく訪れる桜花の頃。
春の叙情の本質だった。T君。わかるよね。
T「惜しむ心ですね。惜春の情。」
そのとおりだ。君はとってもよく勉強して立派に成長したね。梅を惜しみ、桜を心のうちに待ち、やがて桜を惜しむ、そしてやがて……ほら、T君見なさい。この水路を。このわずかに芽吹いた一叢の水辺植物。

桜舞い散る悲しみの心のうちに、鮮烈に輝く初夏の陽光を照り返す花菖蒲やアヤメの姿がもうそこらにゆらゆらとにおひたつ。
T「先生。」
なんだねT君。
T「それは、惜しみつつ見送り、出会いを心に待つ。この2つのフェーズが連続していく生活、つまり先生のような生活にぴったりの叙情の構造ですね」
見事な分析だ。もう君に教えることは何もない。惜しみつつ、でも心からの感謝と満足をこめて、君を送り出すよ。
T「先生、さびしくなります」
うん、まぁ……そうだね。でも、もう君のあとから、新しい花たちがやってきてるんだよねぇ。あ、今週花見(新歓飲み会)だ。うひひ。また楽しくなるど〜〜〜。うひゃうひゃうひゃ。
T「……」
(架空問答以上)
今日久しぶりに職場の山に登ったら、既に山の稜線にぽつりと、山の桜の開花を認めました。それから、植え込みの一つに、真っ白な……なんだろう?アンズ?桜にしては白すぎる……花が満開の木を発見しました。もうどうしようもなく時計が前のめりです。嫌な季節……正直なところ。行雲流水の心に「一瞬」なれた、仲間たちとの兼六園のひとときが、もう懐かしい。