お元気ですか?
共に酒を酌み交わしたあの春がまたやってきましたね。
先日街でジェームス・ディーンの写真をみかけ、ここにキミのことについて書くことを決心しました。あるがままを書きますが、どうか怒らないでくださいね。
始めてキミと会ったのは三条川端にある 「ピッグ・アンド・ホイッスル」 という外国人客がたくさんいるパブでした。 季節は3月。 僕は当時19歳になったばかりでキミは17歳の高校生でした。 学校にはほとんど行ってない・・・と言ってましたね。 うまそうにタバコを吸い、顔を真っ赤にしながら大人ぶってビールを飲む、どことなく木村一八似のキミを覚えています。
会ったきっかけはバンドメンバーを探していたキミが、ある人の仲介で僕のところに連絡をくれたのが最初でした。それで一度みんなで会おう!という話しになったのでしたね。
キミのジェームス・ディーン好きは正直ちょっと異常でした(笑)。
髪型から皮ジャンやブーツにいたるまでジェームス・ディーンそのままで、彼の話しをする時には恐いくらいに熱く語っていましたね。
いつだったか、大丸京都店で 「ジェームス・ディーン写真展」 が開催された時には、会期の期間中毎日学校を休んで朝から晩まで写真展に入り浸り、ある日「受付の奥からエライさんが出てきてな、『キミは毎日来るのはよっぽどジミーが好きなんだねえ』 って言うてこれタダでくれてん!」 と言ってジミーのポスターを僕らに興奮気味に見せていたキミの屈託の無い笑顔が今でも脳裏に焼きついて離れません。
「世界で一番のジミーのファンはオレや!って自信あるねん!」 とも言ってましたね。
ジミーの他にもトム・ウェイツが好きだったり・・・。とても当時18歳の高校生の趣味とは思えませんでした(笑)。
「オレ同い年の友達ってほとんどおらへんねん。友達はみんな年上ばっかりやねん。同い年の奴らと喋っててもなんかガキっぽいしおもろないやん!」 と言っていたキミの言葉がなんとなく理解できます。
それから僕らはなんとなく気が合い、一人暮らしをしていたバンドメンバーの家に転がり込み、朝まで大騒ぎしたり、二条城の駐車場でバーボンのボトルをラッパ飲みしながらギターを弾いて歌ったり(その時キミは吹けもしないのにどこからかサックスを借りてきて壊してしまいましたね)、酔いつぶれて路上で寝てしまい、朝になって工事現場のおっちゃんに起こされたり・・・・、と色々ありました。
キミとバンドをやり始めて、キミの主催でライヴの企画が進行していましたが、他のバンドの身勝手な事情で企画自体がボツになってしまった時にも、キミは落ち込むことなくとても前向きでした。 「ライヴなんかまたいつでもできるわ!これからまだまだがんばってやっていこうな!」 と言ってのけたキミの言葉にも感心したものです。 あんなに心血を注いでいた企画だったのに・・・です。
しかしキミのその言葉とは裏腹に、僕自身のバンドが忙しくなってきて、キミのバンドに居ることが困難になってきた僕は、キミのバンドの前進をストップさせてしまいました。 しかもあろうことかギタリストであった市松くんを僕のバンドに引き抜いてしまったせいで、キミのバンドは解散せざるを得なくなってしまいました。 あの時のキミの全てはあのバンドにあったというのに・・・。
僕はキミとの
約束を破ってしまいました。
キミは絶対に怒っているだろう、と僕は思っていました。だから僕のバンドのライヴにも呼ばなかったのです。 いや、呼べなかったのです。
でも市松くんがキミを呼んでいたのですね。
ライヴ当日、受付でチケットを出すキミを見かけた僕は息をのみましたが、僕を見つけたキミの、あの屈託の無い満面の笑顔で手を振る姿を、僕は一生忘れないでしょう。
これはキミに対する僕の「懺悔」でもあります。
「自分の目標が見つかった。東京に行って劇団に入る。俳優になるねん!だからオレは何が何でも高校を卒業しなあかんねん!」
キミが最初にそう言い出した時は驚いたし、正直無理だと思いました。
でもキミはその後、毎日の授業が終わったあと・・・、学休期間・・・と一人学校に居残り、出席日数の不足分の補習を受け、見事に高校を卒業して意気揚々と一人東京に行ってしまいました。
1991年3月。
ちょうど今のような時期にキミは久しぶりに休暇をとって帰京しましたね。
「久しぶりやし飲みに行こうな!」
急な電話で驚きましたが、なにしろその声が元気そうだったのが嬉しくて、ホントに久しぶりにあの時の仲間が集まって、仲間の一人であった蘭ちゃんの店に集合しました。
ハタチになっていたキミでしたが、好きなことについて熱く語るキミはまったく昔と変わりなく安心しました。 酒を飲めばすぐに酔っ払ってしまうのに、相変わらず大人ぶって強い酒ばかり飲んでいたのにはちょっと笑ってしまいました。
東京での一人暮らしで劇団員、ガスも水道も止められて、今は劇団の先輩のアパートに居候してる・・・と言っていましたが、そこに悲壮感は微塵もなく、相変わらずの屈託の無い笑顔でどんなことでも笑い飛ばしてしまう前向きなキミがとても印象に残っています。
「免許とったら最初に東京で車運転するのが夢やってん!初めて東京に着いたその日にレンタカー借りてんけど、東京って車多すぎて恐くて走れへんねん。そのまま返しに行くのもカッコ悪いな〜と思ったし路肩に車停めて一日中車の中で寝ててん。」
「夏からクランク・インする映画に出るねん。『東方見聞録』っていう映画やで。主演は緒方拳の息子やって言うてたわ。監督は井筒和幸監督やねん。オレめっちゃ気合入ってんでー!やったるでー!井筒監督ってなあ・・・」
「もっともっと自分のやりたいこと必死でやるべきやと思うねん。仕事でも趣味でも遊びでも一所懸命に必死でやったらめっちゃ面白いやん!」
そんな話しを散々聞かされた明け方、ベロベロに酔ってしまったキミを無事に長岡京の実家まで送り届けたのはこの僕です。感謝するように(笑)。
あんなに幸せそうに酔っ払ったキミを見たのはあれが初めてでした。
今だから言えますが、僕はキミのことを、ある時は実の 「弟」 のように、ある時は一緒に戦いぬいた 「戦友」 のように、思えてなりませんでした。
別れ際キミは、「ありがとおー!また会おうなー!角ちゃんもがんばってやー!また今度ギター弾いてなー!オレ歌うしなー!また絶対やでー!!ほんまに絶対やでー!!」
と何回も僕にそう言いました。
でも結局約束は果たせませんでした。
その年の9月、僕は新聞にある記事を見つけ愕然としました。
『静岡県の御殿場で映画撮影中に俳優が事故・・・。病院に運ばれたが意識不明の重体・・・。数日後に死亡・・・。死亡したのは林健太郎さん(21)・・・・・」
僕は息ができませんでした。
キミが死んだと新聞は言うのです。
キミが死んだと新聞は言うのです。
キミが死んだと・・・・・。
落ち着くまで僕は記事の内容を詳しく読むことができませんでした。
自分の心臓の音をすぐ耳元で聞くような感覚におちいりながら、僕はゆっくりと記事を読み進みました。
それによるとキミは武者が川に流されるシーンの撮影で、重さ8キロの鎧を着用し、両手を縛られ、水深2メートルの人工の滝つぼに自ら志願して入った・・・とのことでした。
スタッフの証言によるとしばらくは姿が確認できたが、やがて川に流され見えなくなった・・・ということです。
僕は吐き気を覚えました。
それから先の記事は、遺族である両親が制作会社と監督を相手どって訴訟を・・・・と続いていたようでしたが、どうしても読む気になれませんでした。
今年はキミがいなくなってからちょうど15年になります。
「ピッグ・アンド・ホイッスル」 は今も週末にはたくさんのお客で繁盛しています。
蘭ちゃんの店もまだあの場所にあります。
最後の春に一緒に飲んだ時の、楽しそうで嬉しそうなキミの姿が忘れられません。
思えば僕は、キミとのたくさんの約束を果たせないまま、また破ってしまったまま、こうやっていまだに生きながらえています。
そんな僕が今、素晴らしいメンバーたちに恵まれて、またバンドを始めてしまいました。
キミと歌っているつもりで「あの風に向かって」という曲も2年前に書きました。この曲で少しは許してもらえると良いのですが・・・。
毎年今の季節になると、あの時のぼんやりと暖かい春の風の匂いと、キミと乾杯した酒の味を思い出します。
たった4年間の友人でしたが、キミはその後の僕の人生に最も大きな影響を
今もなお与え続けている親友の一人です。
僕の中では最後に酒を酌み交わした時のハタチのキミが、あの無邪気な屈託の無い笑顔で今も笑い続けています。
キミだけ歳をとらないのは少し納得いきませんが・・・。
手前勝手ですがこれからもお世話になろうと思っています。
僕はキミとの
約束を果たすためにも、カッコ悪いですがもうしばらくこちらでがんばるつもりですから。
ではまたいずれ・・・。

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