日本経済新聞のコラム「核心」。今日は客員コラムニストの田勢康弘氏が書く「本質から逸脱し続ける政治」という内容。
最近の政治の駄目さ加減を見るにつけ、このブログでも何か一つ意見を言いたいと思っていたが、年度替わりに向けてのいろいろ忙しい時期でもあり、書けないでいた。今回のこのコラムは(私より格段に上手いのはもちろんであるが)「我が意を得たり」という内容だったので、転載させていただくことにした。
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本質から逸脱し続ける政治 国の将来 選ぶ側も考えよ
客員コラムニスト 田勢康弘
2009/03/09【日本経済新聞】
百年に一度、という経済危機に直面しているというのに、日本の政治はこれこそ百年に一度というか、とんでもないことになっている。信頼を取り戻し、少しでもましな政治にするために、さまざまな改革が行われてきたが、そのほとんどがねらいと逆方向に作用し、ついには機能不全に陥ってしまった。
政治の本質は「国家の意思を決定する」ところにある。与党は野党の反対意見にも留意しながら、物事を決めて行く。意思決定の基準は国民生活を守り国土の保全を図るところにある。選挙で勝つために、あるいは個々の議員の議席を確保するために政治があるわけではない。どの政党が勝つか負けるか、あるいはだれが総理大臣になるかなど、政治の本質からみればどうでもいいことだ。
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政治の現状は本質から大きく逸脱したところにある。自民党と野党第一党の民主党が、統治能力を欠いた相手の党首にできれば総選挙まで辞めないでいてほしいと願っている。必殺のKOパンチを封印し、ポイント稼ぎのために手数だけのつまらないボクシングを見せられているようなものだ。すべてのことの判断が総選挙に有利か不利かだけになり、いましなければならない経済対策の内容の充実もスピード感も他国に大きく後れをとっている。
戦後の政治は不祥事と改革のいたちごっこだった。よかれと考えての改革でも、その良さが出るよりも負の部分が出てしまう。政治とカネの問題を解決するために、何度も何度も政治資金規正法が改正された。国民一人当たり250円の税金を拠出する政党助成金制度もできた(共産党は受け取っていない)。法の網の目を狭くしても、すぐに抜け道を見つけて違法行為が繰り返される。
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名前だけの公設秘書をおいて給料を横取りしたり、あるいは事務所経費をごまかしていたりと、そこまであこぎなことをするのかとあきれるほどの愚かさ。そのたびに繰り返される「秘書にすべて任せていてまったく知らなかった」「不正なことはないと報告を受けている」という類の責任逃れの政治家の弁解。それが本当だとしても、もうこの手の言い訳は効力を持たなくなっている。
政治家とその周辺の公僕意識や倫理観を欠いた行動が、政治の本質を見えなくしてしまっている。だから知性を疑わせるような政治家の言動が、お笑い芸人の瞬間芸と同じレベルで世間の話題になるような情けないことになっているのだ。小沢一郎民主党代表の公設第一秘書逮捕の直後から、インターネットの動画で小沢氏が頭をぺこぺこ下げ続ける動画が登場し、あっという問にヒット数が6万件を超えた。
政界はもはやテレビのワイドショーやお笑いの世界に材料を提供する貴重な存在になっているのである。
小選挙区制が導入されたとき、これで日本も政策中心の政治が出現することになると、いわれたものである。加えてその後、マニフェスト(政権公約)時代の到来で政治の質は飛躍的に向上するのではないかと期待する向きもあった。それは幻想にすぎなかったのである。小選挙区導入で、政治家は以前よりも選挙区に入り浸るようになった。大物政治家でも簡単に落選するからである。
派閥が力を失ってきたことは悪いことではないが、政策の勉強を地道に行うよりも、ポストをほしがったり、テレビで顔を売ることに熱心になる政治家が増えてきた。顔が売れれば選挙で有利になると信じているからである。政治家ばかりでなく政党も、だれが党の顔になるかに従来以上に敏感になり、○○では選挙は戦えない、という会話が永田町でひんぱんに聞かれるようになった。
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さてこれからどうなるか。プレーヤーである政治家がわからないのだから、予測不能である。政治の信頼を取り戻し、国家の意思をきちんと決められるような体制を築くことができる指導者など、急に出てくるはずもない。選挙のときに選ぶ側がさほど真剣に国の将来など考えずに投票した結果、選ばれた480人の衆院議員の中から、宰相と呼ぶにふさわしい人を探せといわれても、それは無理だ。
立派な人生を送りたいと念ずる人ほど選挙には出ない。立派だと思う人を口説き落として選挙に出てもらう。資金も運動もすべて私たちがやりますから、と頼み込む。そうして当選する人が5人もいれば、政治は変わると思う。いろいろな指導者論が存在するが、結局は西郷隆盛の言葉につきると思う。「命もいらず名もいらず官位も金もいらぬ人は始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは艱難(かんなん)をともにして、国家の大業は成し得られぬなり」。西郷没して130年のいまも、この言葉は輝いている。
(記事ここまで)
まさに書かれているとおりである。政治家も国民も、危機感が薄すぎる。定額給付金のニュースを見て「うちにも早く来ないかな」とわくわくしている場合ではない。
世界で何が起きているのか、それが日本に何をもたらすのか、日本はどう備えなければいけないのか、それが国民全員の関心事にならないというのは、どういうわけなんだろう。
コラムに書かれているとおり、国の意思を決めるのは、政治家の仕事だ。国民がもどかしく思っていても、また何も思っていなくても、正しい方向に国を引っ張っていってもらわなければ困る。
ここまで築き上げてきた政党政治の中身がぼろぼろになっているのに、その仕組みのあっちこっちで足を取られて政治家が転びまくり、それが「政治ニュース」になっている。そんなことをしているうちに、日本の損は毎日兆円単位で膨らんでいる。
目を覚ます政治家が出てくれることを切に願う。コラムにあるように誰か適任者を担ぎ上げるにしても、選挙をしてくれないことには、国民は何もしようがない。もちろんテレビに出て顔を売ることにご執心な人は、目を覚ましてくれなくていい。むしろ早く消えてほしい。誰とはいわないが。