4月25日付の朝日新聞「声」欄に「年寄り虐めず安楽死認めよ」という84歳男性からの投書が載っている。以前なら極論として排除されたであろうこのような意見が、現実味を持って取り上げられる時代ということなのだろうか。
年寄り虐めず安楽死認めよ
無職 大羽 二三男(横浜市泉区 84)
平成の姥捨て山と酷評されている後期高齢者医療制度。姥捨て山は捨てるだけだが、この制度は年寄りの懐に手を突っ込んで、はぎとる質(たち)の悪いものだ。長寿医療制度とニックネームをつけたが、むしろ末期医療制度と呼んだ方がマシだ。
私はここまで年寄りを邪魔にして虐めるなら、いっそ、もっと苦しめればいいと思う。ただ一つ条件がある。安楽死を法制化してもらいたい。
年をとると若い時ほど死を恐ろしくは思わないし、安楽死は自然に受け入れられると思う。ただ苦しむことは嫌なのだ。安楽死が法制化されれば医師もお手伝いするのを躊躇しなくなり、良心の呵責に悩むこともなくなって、頼みに快く応じてくれるだろう。
高齢者を邪魔にし、早く死んでくれとの風潮の中に寂しく生きていくより、楽に死ぬ自由を与えられ、自らの意志で生死を選択できるなら、こんな喜びはない。年間3万人余になる自殺者にも同じことが言えると思う。
かくして、世の中には医療費を嵩張らせる高齢者や世をはかなむ人々がいなくなり、元気な人々で満ちて国力も充実し、楽しい世界が生まれる。
めでたし、めでたし。
(ここまで)
これを読んだ高齢者の中には「おお、そうだそうだ。この先そんなに長生きしたいとも思ってないし、こんなに頑張って働いてきたのに邪魔者扱いされるのなら、せめて楽に死ねる方法を自ら選べるようにしてほしい」と考える人も、多少はいるかもしれない。
でも私は、そのような社会になってほしくはないと思っている。この投書をした人も、「できれば病気を持っても、体が弱っても、笑顔で過ごせる社会であってほしい」と考えていて、逆説的に安楽死法制化を提案しているのではないかと思う。というか、そう思いたい。
安楽死という行為は、生きていくのにあまりにも過酷な状況の時には「慈悲」であるかもしれない。しかし国の政策の結果苦しくなった人に対して、無分別に安楽死を認めることは、憲法に謳われている「健康で文化的な最低限度の生活」が確保されない国の責任を、国民の側から放免してしまうことになる。
日本は世界一の平均寿命を誇り、第二次世界大戦後に生まれた「団塊の世代」の人口に占める割合が大きく、出生率が小さい。つまり日本は、世界の中でも際立って運営の難しい人口構成の国になってきており、今後さらに困難さを増していく。日本の運営がうまく行くかどうか、人口減少に向かう世界の国々が注目している。
高齢者の割合が大きくなり、生産年齢人口が小さくなるのだから、高齢者に限らず日本全体の医療を、今までのように制限なく提供していたのでは、国そのものの運営がうまく行かなくなる可能性が大きいことはわかる。それを見越して、厚生省→厚生労働省は1980年代から医療費抑制策を続けてきた。
日本の医療費は抑制すべきであるという世論操作の下で、医療の余裕は大きく削られてきた。しかしこの先医療側の余裕を削るべきでないことは、至る所で医療崩壊が起きているのを見れば明らかである。「この先は医療を受ける人にも犠牲になってもらわなければ」というのであれば、そのような世論形成を避けてはいけない。
現状ですでに日本は先進国一の医療費削減を達成しているが、この先さらなる削減のために国民の大きな犠牲が必要というのなら、そのことを国民に広く認識させ、国民が「これぐらいなら我慢するか」と同意してから、新しい制度を始めるべきである。日本はその程度の民主主義も成り立たない国なのだろうか。
多くの負担が必要というが、負担割合について医療がどれくらい、国民がどれくらい(その中で現役世代がどれくらい、高齢者がどれくらい)、国がどれくらい、企業がどれくらい負担をするのが適切かという議論の主導権は、企業の代表と財務省が握っている。その結果、国民と医療機関・医療従事者に過重な負担がかかっていることを、もう少し問題にしても良いのではないかと思う。
さて、
「安楽死が法制化されれば医師もお手伝いするのを躊躇しなくなり、良心の呵責に悩むこともなくなって、頼みに快く応じてくれるだろう」と書かれているが、私はたとえ安楽死が法制化されて合法となっても、死にたい人には申し訳ないが、お断りしたいと思っている。
誰かが「死なせてください」という依頼をし、それを受諾して実行するというのは、どんなに苦痛が少ない方法を選択したとしても「自殺幇助」または「殺人」である。医師であるからやってもいいとか、法律で認められたから躊躇なくできるとか、そんなに簡単に考えてもらっては困る。
安楽死を実行するというのは、死刑執行の書類にサインをするとか死刑台のスイッチを押すのと同じように、心理的に負担の大きい仕事だろうと思う。「医者だからどうすれば人が死ぬか知っているだろう。それをやってくれればいいんだ」と言われてそれを実行するのは、「あんたには2本の腕があるだろう。それで首を絞めてくれ」と言われてその通りにするのと、私にとっては同じことだ。
もし日本中の医師にそれをやれと命令が下ったら、少なくとも私は医者を辞めるだろう。いくら高い報酬がついても、そんな仕事を喜んでやるという医師がそう多くいるとは思えない。もし安楽死を合法化し、日本にとって生産的でない人が希望すれば安楽死できるようにするなら、厚生労働省管轄で安楽死センターを作って死刑台のスイッチを押せる医師を集め、そこで一手に引き受けてほしい。
ただの投書にこんなに反論しなくてもいいとは思う。しかし今の日本の社会保障政策が、多くの日本人を将来「死んだ方がマシ」「国のために死んだ方がいいのかな」と思わせる方向に向かっているような気がして、その流れから本気で「年寄りになったら国のために安楽死させてくれ」と思う人がたくさん出てきたら嫌なので、コメントしておくことにした。