
中村仁一著「大往生したけりゃ 医療とかかわるな
-「自然死」のすすめ -」
(幻冬舎新書)という本が気になったので、読んでみました。良い本なんだけど、不用意に読んだり中途半端に読んだりすると、その後の人生の展開によっては道を誤る元になる可能性もあると思ったので、気になった部分を記事にしてみることにしました。
読んでみようと思ったきっかけは、書店のとっても目立つところに並んでいたのが一つ、もう一つは週刊現代3月31日号に「大往生したいなら、病院に行くな」という中村仁一×新田國夫という2人の医師の対談が載っていて、「これはちょっと危ないな」と思ったからです。その後、週刊文春でも取り上げられています。
中村仁一先生は老人ホーム併設診療所の医師、新田國夫先生は在宅で千人を看取った医師で、高齢者の看取りの経験は豊富だけれど、現在の病院医療の中で生きているわけではないようです。対談には「病院で起きた悪い事例」が書いてあるけど、「そういう病院も昔はたくさんあったし、今もあるかもしれないけれど、そうじゃない病院の方が今は圧倒的に多いけどなあ」と思うところがありました。この対談や本を読んだ人の中で、「病院に行った方がいい人」まで病院から遠ざかってしまう人が出るのは、まずいんじゃないかなと感じました。
というわけで、「大往生したけりゃ 医療とかかわるな」のいいところ、注意して読んだ方がいいところ、あるいはここには異論があるというところを、書いてみます。とはいっても「いいこと書いてるな」と思った隣の行には「これはちょっと…」と思う記述があったりして、うまく整理できるかどうかわかりませんが。
このブログ記事は、中村仁一先生の本の記述を抜き出して、その部分についての感想や意見を(→私はこう思う)のような形で書いてあります。全文を転載して意見を書き加えるわけにもいかないのでこのような形にしましたが、枝葉の議論をしたくて書いたわけではありません。本というのは文脈を読むべきものです。ぜひ一度、本全体を読んでいただきたいと思います。
では、順番に。
☆ ☆ ☆
<まえがき>
いいと思ったところ
・老人ホームで12年目。最後まで点滴も酸素吸入も一切しない「自然死」を数百例見せてもらえるという得がたい体験をした。
(→「死」を経験する数が多い方が、当然どのような死に方が良いかに思いを巡らせやすいでしょう。現代人の中で「死」を経験している人が少ないことが、一つの問題だと思います)
・年寄りは、どこか体の具合が悪いのが正常。「年のせい」を認めず「老い」を「病」にすり替えることが多すぎる。
(→私も、「元に戻せる変化」と「戻せない変化」の区別を常日頃から意識して、患者さんの診察をしています)
これは…と思ったところ
・「死」という自然の営みは、本来、穏やかで安らかだったはずです。
・がんでさえも、何の手出しもしなければ全く痛まず、穏やかに死んでいきます。
(→自然に任せても、穏やかでも安らかでもない経過になる人は、少なからずいます。実際に診ている私が言うのですから、間違いありません。そういう人たちに全く出会わずに来られたのなら、とても運がいい医者人生だとは思います)
<第一章 医療が“穏やかな死”を邪魔している>
いいと思ったところ
・(中村先生の)「医療の鉄則」
・死にゆく自然の過程を邪魔しない
・死にゆく人間に無用の苦痛を与えてはならない
(→緩和ケアの現場でも、死に向かう運命に抗うことができないのなら、たいていこの原則に従います。この「鉄則」は冒頭に出てきますが、ここから続くさまざまな「医療に対する“ありがちな”思い込み」には、ほとんど私も同感です)
これは…と思ったところ
・
(24ページ)結果がわかれば病状を好転させる術がない場合は、検査をすべきではない。
(→病状が一方的に進むことが確実な場合でも、検査をして「今自分はどういう状態か」を知ることが、心の安定や今後の予定に必要な場合もあります。道に迷ってしまった時に「あなたがいる場所はここですよ」と地図で示してくれるようなものです)
・
(33ページ)(医学が)本当に発達したというなら、治療法は一つあれば充分のはず。
(→いくつも治す良い方法があって、どれにするかは本人が選ぶのが一番という場合もあるはずです)
・
(33ページ)本来、医療は、本人の身体の反応する力を利用するものです。
(→私としては「医療は、本人の身体の反応する力と協力して、良い結果を得ようとするものです」と思う。どこが違うかというと、自然治癒力がメインで医療がその補助という中村先生のバランスよりは、もう少し医療には力があると信じているというあたり)
・
(49ページ)「自然死」は、いわゆる「餓死」ですが、…
(→「餓死」というと一般には、食べ物や水分を断った結果として命が終わるととらえられる。私が考える自然な死は、病気や加齢による体力低下で食べ物や水分を受け止める力が減っていって、最終的には何も受け止めないぐらいの少ない力になって、
バランスを保ったまま命が続かなくなるというイメージ。中村先生も同じようなイメージで言われているのかもしれないが、それを表すのに「餓死」ということばを使うのは、適切な表現でないように思う)
・
(55ページ)(体力がうんと少なくなった人を風呂に入れることに関して)そして風呂場から出たよれよれの死にかけの年寄りに対して、「どう、気持ちよかったでしょう?」と。私なんかですと、「冗談じゃねェ!」って思うんですけれども。(中略)もっとも、私はこれを「生前湯灌」「湯灌の前倒し」と呼んでいるんですが。
(→どんなに体力が少なくなっても、風呂に入って「幸せ」を感じる人はいる。それと、自分の城で発言しているのはしょうがないとして、一般の人が読む本としては適切でない“暴力的”“乱暴”な言葉の選び方が目につく)
この他に中村先生は、予防接種やリハビリに否定的な意見を述べておられますが、現場で頑張っている専門家が読むと「ちょっと待て」と思われる内容がある気がします。私は専門家じゃないので、ここではスルーします。
<第二章 「できるだけの手を尽くす」は「できるだけ苦しめる」>
いいと思ったところ
・
(67ページ)いのちの火が消えかかっている状態での胃瘻は、回復させることも、生活の質の改善も期待できません。のみならず、身体が入らないといっている状況下で、無理に押し込むわけですから、かなりの苦痛と負担を強いることになります。
・
(72ページ)(体力が少なくなった人の胃瘻からの栄養は)一日に、600キロカロリーから800キロカロリーもあれば充分と思われます。
(→胃瘻そのものについては自民党の
石原幹事長あたりに任せておくとして、栄養や水分を受け止める力が減ってきたら、それに合わせて栄養補給の量も絞る方がいいと私も思う。もっと少ない量が丁度いい人もいる)
・
(77ページ)食べないから死ぬのではない、「死に時」が来たから食べないのだ。
(→これはいい表現だと思う。こういう言い方を専ら選んで、“餓死”とか言わない方が誤解を受けない気がするんだけどなあ)
・
(78ページ)これまで述べてきた通り、発達したといわれる近代医学であっても、延命治療で「死」を少しばかり先送りすることはできても、回避できるような力はありません。
(→時々「病院に連れて行けばどんな命でも助かる」と信じている人に巡り会います。しかし不老不死の医学は、世界中のどこの病院でも提供していません)
・
(80ページ)(家族が)辛くても「死ぬべき時期」にきちんと死なせてやるのが“家族の愛情”というものでしょう。そういう視点に立てば、「死に目にあう」というのも同様です。本人と話ができる状況ならともかく、虫の息の状態を引き延ばすわけですから、“鬼のような家族”といってもいいと思います。
(→私も「死に目に会えなかった」ことを残念がる必要はないと思う。その瞬間にその場にいたかどうかよりも、その人とどんな時間を過ごして、どんな思い出が残ったかの方が重要)
・
(85ページ)(医学が発達して利用できるようになり)この内部から発せられる(死に時の)サインをキャッチする能力を他人(医者)任せにした結果、極度に衰退させてしまいました。
(→医者よりも、患者さん自身の方が「今どんな状態で、どのようになっていく」かを察知する力は圧倒的に大きいと、私も思う。せっかく患者さんのその力が発揮されているのに、医者がそれに気付かなかったり無視してしまう場合もあるような気がします。私自身も含めて)
・
(90ページ)「看取らせること」が年寄りの最後の務め
(→立派な立ち居振る舞いのまま亡くなると「自分もこういう死に方をしたい」と、まわりの人が考える)
これは…と思ったところ
・
(69ページ)胃瘻をして老人ホームに帰ってきて、介護職員が椅子に坐らせ、前屈みにさせて、ゆっくり食事介助すると、
再び口から食べられるようになるケースが結構あるのです。
↓(と書いたすぐ後に)↓
病院では、胃瘻をつくる時に家族説得の材料として、前述の脅しとともに、「一度つくっても、また口から食べられる場合もありますから」と甘い言葉がけをすることもあります。(中略)しかし、その後、
口から食べられる状況にはなりません。だんだん人間離れした悲惨な姿に変身していきます。
(→校正段階で、この2つの文章が隣り合わせになっていて違和感を感じないというのは、どういう理由なのでしょう。病院では必ず悲惨になるけれど、老人ホームではそうでないこともあるという思い込み? またこの後の例も、あまり適切な例でないのと、対処の仕方もこんなえげつないことをわざわざ書かなくてもと思う)
・
(86ページ)このように考えると、突然死など起こるはずがないと思うのです。現実に起こるのは、(身体の異常の)サインをキャッチする能力を失ったせいか、あるいは無視、軽視した結果だと思うのです。必ず、前触れがあったはずです。
(→人の命が終わる原因にはさまざまあって、病気なのにまるで事故に遭うように突然命が終わるものもあります。それを予知できなかったのも「本人がサインをキャッチできなかったから」と言うのは、どうなんでしょう。予知能力がないと察知できない“サイン”を見逃しても、自己責任?)
・
(93ページ)(臨終間際で)一見苦しそうに見えても、本人は苦痛を感じない状況になっていますから心配はいりません。
(→たしかにそういう時もありますが、そうでない時もあります。それを見極めるのはなかなか難しいですが、まったく治療をしなくて、身体が受け止める以上の栄養や水分の補給はしていない人でも、本人がはっきり「痛い」「苦しい」と言われることはあって、そのような時は辛さを取る治療をした方がいいと思います)
<第三章 がんは完全放置すれば痛まない>
この章は、まずタイトルに対して異論があります。中村仁一先生が「完全に放置して痛んだがん患者さんを、私は見たことがない」と書くなら認めますが、「完全放置すれば痛まない」というのは言い過ぎです。なぜなら私は、完全放置したら耐え難い痛みが出てきた人を診た経験があるからです。それも一人二人ではなく。
いいと思ったところ
・
(122ページ)また、よく、ホスピス入所中に、最後の力を振り絞って、誰それとの仲直りを実現させたとか、親の墓参りや故郷へ帰るのを手伝って本人を満足させたとか、めでたしめでたしの話が語られます。
しかし、考えてみればそんなことは、繁殖を終えたら、各人が自分で自由に動ける間に、還暦や古希などの人生の節目で、始末をつけておかなければいけないことです。
「死」を考えないようにしてきたことのツケの大きさが、うかがえます。
(→私も「もっと元気なうちにこれをしておけば、こんなに大変じゃなかっただろう」と思うことがあります。ただ、本当に大事なことは切羽詰まってみないと見えてこないというのも、人間の習性)
これは…と思ったところ
・
(97ページ)私も以前から、がんで痛みが出るのは、放射線を浴びせたり、“猛毒”の抗がん剤で中途半端に痛めつけたりするせいではないか。完全に根絶やしにできるならともかく、残党が存在する以上、身内を殺された恨みで、復讐に出てもあたりまえと思っていました。
今はそれが、確信に変わっています。
(→うーん。がんを痛めつけたから痛みで逆襲されるんだと言われると「何じゃそりゃ」という感じ。痛みが初発症状で発見されるがんはたくさんありますが、そういうがんの立場はどうなるのでしょう。そういうがんは、まだ何も痛めつけてないのに)
・
(105ページ)もし、それでも強烈な痛みに見舞われるようなら、よほど前世で悪いことをしたせいと思って諦めるか、現世の“人生劇場”において、与えられた役柄として受け取り、真面目に、真剣に、一生懸命のたうち回るしかないでしょう。
(→がんで痛みが出た時に「これは何かの報いだ」と考えることは、何の得もありません。痛みが出るのはあなたのせいではありません。そういう時のために、日本のがん診療医は「緩和ケア」の勉強をしています。緩和ケアを専門としている医師も増えてきています。のたうち回らずに緩和ケアを受けてください。)
・
(110ページ)また、たとえ、数カ月の延命効果はあったとしても、副作用が強烈でしょうから、ヨレヨレの状態になります。
(→この文章を読んで、中村仁一先生は「今のがん治療の現場」をご存知ないと思いました。昔は効果がないと言われていた大腸がんの抗がん剤治療は、普通の生活をしながら外来でできる標準的な治療でも、年単位で寿命を延ばせる時代になっています。昔の抗がん剤治療と今のそれは、同じに考えてはいけません)
・
(120ページ)しかし、老人ホームで、60〜70名の繁殖を終えた年寄りのがん患者をみていますと、がんに対して何ら攻撃的治療をしない場合、全く痛みがないのです。
繁殖期の患者の場合にどうなのかは、経験がないので判定はできませんが、同じように痛まないのではないかと思っています。
(→失礼な書き方かもしれませんが、60〜70名のお年寄りのがん患者に本当に「全く痛みがなかった」のか、「中村仁一先生は痛みがないと判断した」のか、これではわかりません。「繁殖期の患者の場合にどうなのか」を「痛まないのではないか」と推測していますが、前にも書いたように「痛みで発見・診断される」人が多い事実から考えても、放置すれば痛まないという推論は間違いであると言えます)
・
(121ページ)緩和ケアの考え方が、がんの早期からとり入れられるようになったとはいえ、現実問題として、がんに対する攻撃的治療をやりたい放題やった挙句、刀折れ矢尽きた果てに到達する場所が、ホスピスになっているのではないでしょうか。
別に、これは、ホスピスを貶めていっているのではありません。結果的にそういう位置づけになっているのではないかといっているだけです。
つまり、金属バットで力一杯殴りつけた跡を、ゴシゴシ撫でさすっているようなものです。その撫でさする場所がホスピスではないかと思うのです。金属バットで殴る方を加減した方がいいのではないかと思うのですが、後を絶たないというのが実状でしょうか。
(→はっきりいって私も、「この治療はやり過ぎではないか」と思うことはあります。でも「治療が少しでもできる間は無理矢理治療を続ける」という病院は少なくなっていて、それよりもご本人や家族の希望で無理な治療を続けている割合の方が増えてきている印象があります。「がん治療病院はひどいところ」という思い込みを植え付けるような書き方は、歓迎できません。ホスピスに対する表現も、何だかなあ。刀折れ矢尽きた人を「ゴシゴシ撫でさする」って)
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(128ページ)(心のケアに関して)本来、苦悩は自分で悩んで苦しんで、時間をかけて乗り越えていくしかないものなのではないでしょうか。誰かが代わって苦悩して解決してくれるものではありません。
むしろ当座は、そっとしておいてやるのが、一番の思いやりではないかと思うのです。
(→たしかに苦悩を乗り越えるのは「本人」です。私も「そっとしておく」のが一番と思う時もよくあります。ただ、これまで想定していたより大きい“命にかかわる問題”がやって来た人に対して、その苦悩を乗り越える手伝いをせずに放っておくのが、どんな時でも最善とは思いません。中村仁一先生は「心のケア」をお節介と思っているのかもしれませんが、心のケアでは「本人のことばを聞く」「そばにいるよと伝える」ことが重視されます。それでもお節介と思われる時には「少し離れて見守る」ようにします。心のケアの“無力さ”はよく感じますが、「放っておく」のが最善ではないと感じます)
<第四章 自分の死について考えると、生き方が変わる>
いいと思ったところ
・
(132ページ)現在、日本人はまるで「死」ということを考えなくなってしまっているようです。例えば、特別養護老人ホームに入居中の90歳を超す親が死ぬことを、自分だっていつ死んでもおかしくない年齢に達している70歳前後の子どもたちが、考えたこともないというのが普通です。
(→たしかに、親の死や自分の死について、考えたことがないという人が多すぎる気はします。私が書いた「がんになっても、あわてない」という本でも、第一章に「死についてもっと考えておこう」という意味合いの章を置いています。マスメディアなどの力もあり、一時期に比べれば考える気運は盛り上がっているような気もしますが、まだまだだとも思います)
・
(148ページ)(死を見据えて生き方のチェックをしながら人生を歩めば、)目をつぶる(命が終わる)瞬間、「いろいろあったけれど、そう悪い人生ではなかった」と思え、親しい周囲との永遠の別れに対しても感謝することができ、後悔することが少なくてすむ
(→私も自分の目標としては「人生が終わる時に『まあいい人生だったな』と思って死ねること」を一つの理想としています。肯定的な気分で人生を終われれば、残念な気分で終わるよりも良いんじゃないかと思います)
これは…と思ったところ
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(142ページ)(心筋梗塞で亡くなった御尊父の死にざまを讃えながら)近親者にこういう死にっぷりを見せてくれる者がいるのは、大変心強くありがたいものです。しっかり“遺産”として受け取りました。そして、私の「死生観」に色濃く影響を与えたのも事実です。
(→心筋梗塞などの「一気にやってくる肉親の死」にも動揺しないのは、「死に対する備え」がかなり進んだ状態だとは思います。それを受け止められる人が偉いのはもちろんそうですが、受け止めきれずに逆にトラウマになってしまう人も、多くいる気がします。そういう人はどうすればいいのかも、書いてほしい)
・
(166ページ)医療では、「患者中心」のターミナル・ケアが謳われます。しかし、この「患者中心」には、「患者が中心」と「患者を中心」の2通りがあります。
(→この後「患者が」はいいが「患者を」は良くないということが言われているんですが、文脈がすっきりしない。「が」と「を」という助詞の選択だけで差別化しようというところに、無理があるのかなあと思います)
<第五章 「健康」には振り回されず、「死」には妙にあらがわず、医療は限定利用を心がける>
いいと思ったところ
・この章のタイトル、「『健康』には振り回されず、『死』には妙にあらがわず、医療は限定利用を心がける」というのは、基本姿勢として、良いと思います。
・
(174ページ)とにかく、このように今の日本人は、体にいいと聞けば、小便すら飲んでしまうという、まさに「健康のためならいのちもいらない」状況を呈しています。
(→例はちょっと極端ですが、「健康のためなら命もいらない」と思っている人がいるというのは、私も講演などで時々言いますし、私の上司だった鎌田實先生もどこかで言っていた気がします。何事も、ほど良いバランスと力加減が大事)
これは…と思ったところ
・
(167ページ)生きものは繁殖を終えれば死ぬ
(→すべての生き物が繁殖を終えたらすぐ死ぬわけじゃない。それと、おじいちゃんおばあちゃんが孫の面倒をみて、父ちゃん母ちゃんが仕事に出られるという役割分担もできるのが人間の人間らしいところだから、否定すべきではないと思うし。「繁殖を終えたら」という表現は、この本のあちこちに出てくるんですが、額面通り受け取ると「子どもを作ったら後の人生は不要」と読めるような表現は、ちょっと極端だなあと思ったり)
・
(172ページ)(健康食品を)私は全否定するつもりはありません。ただ、使用する以上、「鰯の頭も信心から」といわれるように、中途半端や半信半疑はよくありません。徹底的に信じること、これを助言したいと思います。
(→私が診た患者さんで、健康食品を信じて飲み続けて、でもがんが進行して亡くなった後、健康食品会社の人からの電話に家族が「亡くなった」と告げたら、「治ると信じる力が足りなかったんでしょうなあ」と言われた人がいます。そういうことを言ってしまう=効かなかったことを患者さん本人のせいにするような人が売っている健康食品が、あるということです。全部とは言いませんが)
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(176ページ)専門医は病気、臓器中心主義ですから医療優先で、患者の価値観、人生観、年齢や生活背景などは、いっさい考慮してくれません。
(→ほんとにそんな専門医ばっかりだったら、嫌ですね。でもそんな「専門バカ」ばっかりがいる医局というのは、私が知る範囲では思い当たりません。専門バカがいないわけではありませんが、いろんな事情を考慮してくれる専門医は、世の中にはたくさんいます)
・
(183ページ)(健診や人間ドックに関して)それでは、全く無駄で無意味かといえば、そんなことはありません。なぜなら、健診業界を潤し、病院の経営安定や医者の生活保障の役には立っているわけですから、心の広い方は、お続けいただきたいと思います。
(→これは、健診や人間ドックそのものには全く意味がないという見解を、皮肉を込めて言っているわけです。でも健診で早期がんが発見できて完治した人にも「健診なんて意味がない」と言える根拠が、どうしても読み取れませんでした。健診を受けることが無意味な人もいることは否定しませんが、検診を受けることに意味がある人も、いるのです。中村先生が働いているフィールドにはいないのかもしれませんが)
<終章 私の生前葬ショー>
この章は、中村仁一先生の簡単な自伝とこれからの予定をまとめたようなものなので、そういうものだと思って読めばいいと思います。204ページの「24時間ルールの誤解」は、医師で誤解している人もまだ少なくない気がするので、できたら読んでみて下さい。
☆ ☆ ☆
とまあ、目に止まったところや気になったところを抜き出すだけでも、膨大な量になってしまいました。ちゃんと読んでいただいた方、ありがとうございました & お疲れさまでした。本と照らし合わせながら読んでいただくために書いたので、そうしていただいた方には、さらに感謝します。
本を読んでみて、「全体には良い本である」という印象を持ちました。ただ気をつけなければいけないのは、この本を書かれた中村仁一先生は「特別養護老人ホーム」の医師であるということです。
誤解を恐れずに言ってしまえば、先生が診ているような年齢層の方には、おおむね良い本だと思います。しかし、まだ社会や家庭の中で果たす役割が残っている人には、この本の内容を鵜呑みにしてこの通りの行動を取った時には、「あの時選択を誤ったかなあ」と思う結果になる可能性、「書いてあることと違うじゃないか」という結果になる可能性があります。これは、私の経験から言えることです。
この部分を認識した上でなら、また中村先生の個性の部分が嫌でなければ、読んでみて損のない本だと思います。興味が湧いた方は、是非どうぞ。
(引用と注釈の比率などから考えて、著作権侵害には当たらないと考えますが、問題があるようでしたら御指摘下さい。正式に引用の許諾を得たいと思います。その他のご意見も、遠慮なくどうぞ。)
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