日本老年医学会は、終末期に栄養や水分を管を通して補給する「人工栄養補給」について、本人の生き方や価値観に沿わない場合には減らしたりやめたりできる指針案を提示した。
記事は次のとおり。
終末期の人工栄養補給、中止可能に…学会指針案
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20111204-OYT1T00848.htm
2011年12月5日(月) 【読売新聞】
高齢者の終末期における胃ろうなどの人工的水分・栄養補給は、延命が期待できても、本人の生き方や価値観に沿わない場合は控えたり、中止したりできるとする医療・介護従事者向けの指針案が4日、東京大学(東京・文京区)で開かれた日本老年医学会のシンポジウムで発表された。
近年、口で食べられない高齢者に胃に管で栄養を送る胃ろうが普及し、認知症末期の寝たきり患者でも何年も生きられる例が増えた反面、そのような延命が必ずしも本人のためになっていないとの声が介護現場を中心に増えている。
そこで、同学会内の作業部会(代表・甲斐一郎東大教授)が試案を作成した。広く意見を募って修正し、来年夏までには同学会の指針としてまとめるという。
(記事ここまで)
この指針案については、さまざまな意見が出ると思う。私は、手順がきちんと守られるなら、基本的に賛成だ。
反対する人の中には「『本人は無理な延命をしないでと言っていた』と誰かが言えば、まだ続く命が途切れさせられる危険がある」とか、「医療費を減らしたい人たちの、命を軽く見る指針だ」という人も出てくるだろう。尊厳死をめぐる議論でも、必ずそういう意見が出てくる。
賛成する人の中にも「本人である私がもういいって言っているんだから、すべての栄養補給はしないでくれ」と、餓死に向かって突進するような人も出てこないとは限らない。それに近い考え方をする人には、これまで何人も出会ったことがある。
指針案をまだ読んでいないが、こういう両極端な人たちを許して、それに合わせて行こうという指針案ではないと思う。それよりももっと現実的なよくある状況に対して、余分に悩んだりいざこざを起こしたりしなくてもすむようにという考えから出された指針だろう。
現実に起きている問題は、次のようなパターンが多いと思う。たとえば脳梗塞で意識が急に悪くなり、一命は取り留めたものの食事ができなくなり、鼻から、あるいはおなかに空けた穴から管を通して胃袋に、栄養を流し込むようにした。これで栄養補給は続けられるけれど、意識は戻らず「ただ生きているだけ」の状態になった。本人は元気なときに「意識がなくて飯も食えないような状態になったら、延命は中止してほしい」と言っていたが、それを証明するものがなく、人工栄養中止に踏み切れない、というような状況だ。
このような場合に、栄養や水分の補給を中止すると、続けた場合と比べてたいてい命の長さは短くなる。そして命の長さを短くするような判断は、現在の日本の法律を厳密に解釈した場合「違法行為」となる。意識のない人に人工栄養を続けることで、家族の心労も、経済的な負担も、医療介護従事者の仕事も、医療費や介護費用も多くなり、しかもその状況は本人が望まなかった状況だったとしても、やめると決めたら犯罪者になるかもしれないのだ。
私がこれまでお付き合いした患者さんの中にも、「食事が摂れなくなったら、点滴や経管栄養(人工栄養)はしないで下さい。食べられなくなったらそこまで、というのが自然な姿だと思っていますから」ということを言われた方はたくさんいた。その方たちとは、意向に沿うことをお約束して、ご家族ともその考え方を共有し、栄養を補給すれば命が延びたかもしれない状況であっても、補給せずに診させていただいた。これも家族や医療従事者の誰かが告発すれば、私は犯罪者になる可能性がある。いつもその心配をちょっとだけしながら、仕事をしている。
今回の指針案が広く受け入れられたとして、活用する場面にはさまざまなパターンがあり、問題が起きる可能性もたくさんある。しかしそれは、これまで「なんとなく」ですませてきたから問題にならなかっただけかもしれない。
意識がしっかりしている人の場合には、本人が頑固な人だと困ることもあるだろう。先ほど書いた「本人がもういいって言っているんだから中止してくれ」をどうするかという問題だ。栄養補給も断る、管を抜いても自分ではご飯を食べない(または食べられない)、回りは見ているだけしかできない、という場合だ。こういう場合には、本人はおなかが空くぐらいしか困らないが、回りの人はかなり苦しい。あまり極端なのは考えものだ。
認知症などで次第に機能が落ちていったような場合には、いつの時点で「このへんで終わりにしましょう」と言うかという問題がある。家族も、医療介護従事者も、自分からは言い出しにくい。言った人が「冷たい人」と思われる可能性は大きいからだ。でもギリギリまで引き延ばしてどちらかが口を開いたところ「私もそれをいつ言おうかと悩んでいました」と相手も言うということは、時々経験する。そういう場合には、もっと手前の時点で判断すべきだったのだろうかと、それも悩んだりする。
意識がない人の場合は、本人の生き方や価値観をどう確認するかが問題になる。家族が「お金がかかるし、早く命が終わってほしい」と思って、(本人が言っていなくても)「栄養補給はしないでほしいと言っていました」というパターンも考えられるし、逆に「じいちゃんの年金がなくなると家計が苦しいから」と思って、(本人はしないでほしいと言っていても)「できるだけのことを続けてほしいと言っていました」というパターンも考えられる。お金のことを言う家族ばかりいるわけではないが、でもお金の問題は切実だ。
この指針案が示されたことで、期待することは二つ。一つ目は、本人の希望を満たしたり、全体の幸せを増やすために「人工栄養補給を減量・中止する」という判断が、違法行為でない状況になってほしいなという希望。もう一つは、そういう状況になったときに回りのみんなが困らないように、あらかじめ考えたり意思表示をしておいたりする人が増えるといいなという希望。
2010年の日本の年間死亡者数は、約119万4000人。毎年平均3万人ぐらいずつ増えて、2038年〜2040年頃にピークを迎え、その頃には毎年166〜170万人が亡くなるようになると予想されている。年間死亡者数が100万人を超えたのが2003年だから、わずか7年で約2割増加している。日本は急速に「多死社会」へ突進している。
「命の長さを長くするのが、どんな場合でも正しい医療」と短絡的に割り切るのは、判断しなくてすむという意味では楽だが、その人の人生のあり方として適切かどうかという判断もしないまま時間だけが過ぎてしまう。自分の意思表示ができない状況になったらどうしてほしいか、誰もが一度考えて、それなりの考え方を回りの人と共有しておくことができると、命にかかわるいざこざがだいぶ減らせるのではないかと思う。
という理由で、基本的には賛成。
↓このメアド欄はセキュリティが低そうなので、書かない方が無難です↓