
2011年7月29日と30日の2日間、ニトリ文化ホール(札幌芸術文化の館)、ロイトン札幌、札幌市教育文化会館で、日本緩和医療学会学術大会が開かれました。参加してきました
(写真は「おねだん以上」?のニトリ文化ホール)
日本緩和医療学会学術大会(年に1度の大会)は、今回が16回目。ここ札幌は第1回大会が開かれた地で、15年ぶりに札幌に戻ってきました。あの時の会場は札幌中心部から南東方向に川を越えて(白石区?)やや遠かったと記憶していますが、今回は大通公園近くの西寄り、北一条西11丁目〜13丁目で開かれています。

これが東側のロイトン札幌で、

これが南西側の札幌市教育文化会館。ニトリ文化ホールの2,300席を最大に、1,000人規模の会場がいくつも隣り合った区画に集まっているのは、さすが大都市札幌。
日本緩和医療学会学術大会(以後「大会」と略)は、近年は5,000人を超える参加者を集めています。全国から参加者が集まるので、会場の大きさだけではなく、ホテルなどの宿泊施設を考えると、今や大都市でないと開催できなくなってきています。今回は札幌ドームで嵐のコンサートが開かれる日と一部重なったらしく、大都市札幌でもホテルを取るのが結構大変でした。
15年前には、緩和ケアの定義も今とは違って「
治癒不可能な状態の患者さんに提供されるケア」でした。その後2002年にWHO(世界保健機関)の緩和ケアの定義が変更されて「生命を脅かす疾患を持った人の問題に、疾患の早期から積極的に対応するケア」になったり、がん対策基本法が施行されて「すべてのがん診療の現場に緩和ケアが行き渡るように」国が積極的に動き始めたことなどから、昔に比べて緩和ケアの幅も大きく広がってきました。
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今大会の私の最初にして最大の仕事は、実は緩和医療学会の仕事ではなくて、10月9日と10日に幕張メッセで開かれる「日本死の臨床研究会年次大会」のポスターを貼って、チラシを置いてくることでした。

チラシを置く場所はもう埋まっていましたが、少しずつ詰めてもらって、置いていただきました。ポスターは以前この大きさ(A2版)を出力センターで印刷したら高かったので、自分のところのA3プリンターで上下2分割して印刷、それを張り合わせてA2ポスターにしました。
ついでにこのブログでもお知らせしておきます。「第35回日本死の臨床研究会年次大会」は、10月9日(日)と10日(祝)の2日間、千葉県千葉市の幕張メッセでおこなわれます。100歳の誕生日を迎えられたばかりの日野原重明先生や、市民公開講座では鳥越俊太郎さんが死生観を語る企画、他にも小児のホスピスや自殺/自死の問題など、盛り沢山の企画を用意しています。事前参加申し込みは8月19日正午までで、
「ホームページ」から申し込めます。医療従事者だけでなくどなたでも参加できますので(市民公開講座は無料、その他は非会員10,000円、会員8,000円)多くの皆様おいで下さい。(私が広報係だったりするので、お知らせでした)
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大会1日目は、開会式から出ました。開会式は非常にシンプルで、大会長の蘆野吉和先生(十和田市立中央病院院長)の1分ほどの挨拶で終了。
続いて「これからの包括的がん医療」というセッションに出席。「包括的がん医療」というのは、明確な定義はまだないようですが、治す治療をしている時には治療だけしか受けられないのではなくて、病気によって困ったことが起きていたらそれに対応する緩和ケアも同時に受けられるなど、広い目で見て最適ながん医療が受けられる体制のことです。
従来の医療はおもに、医療を提供する側が治療方針を決定する中心となっていました。一人の主治医が医療全体をくまなく把握している時代なら、この方法でも問題ないと思います。しかし現在の医療は多方面に高度な発展を成し遂げ、一人の医者で「この患者さんにとってベストな医療」を提供することは無理になっています。
その状況の中で、一人の患者さんが受けられる医療の幅を広げて、どんな状況でも「よかった」と思えるような医療を提供するために、患者さんに関わるすべての人がどう考え、何をしていけばいいかが、さまざまな立場から語られました。
抗がん剤治療をする立場からは、化学療法(抗がん剤治療)の成績向上で患者さんとつき合う時間が長くなったこと、最後までつき合っている患者さんが8割以上いること、患者さんが亡くなった時「何らかの失敗感」を感じている医師が多いこと、緩和ケアを提供できた時に満足感を感じる医師が多いことなどから、今進められているPEACEプロジェクト(よくこのブログで書いている緩和ケアセミナー・緩和ケア研修会のこと)などが、患者さん中心の包括的がん医療の推進に役立っていると話しておられました。
外科の立場からは、術後の経過が良くなかった患者さんに気管内挿管をするため、意識を落とす薬を使ったが助からなかった経験を振り返り、自分がその人のコミュニケーションを取れる人としての人生を終わらせる操作をしたということが命を考える重要な出来事だったと話され、医師が「病気を持った人の人生の伴侶である」ことの大切さを説いた。
大学からは、キャンサーボードという仕組みを使って、患者さんにとってより適切な医療を提供するための工夫が示されました。電子カルテの中にキャンサーボードの入り口があって、そこで他の科の専門家と意見をやりとりすることができるようになっているそうです。この仕組みによって、より適切な治療が受けられた、苦痛が緩和されたと思われる患者さんが増えてきているようです。
緩和ケア専門家からは、がん医療を取り巻く変化、人口構成の変化、緩和医療が適切にかかわることによって病気の予後が改善したという研究発表、緩和医療の定義のアップデートなどを示して、包括的がん医療には緩和ケアの質と量の拡大が欠かせないけれども、日本の現状はまだ諸外国に水をあけられていると話されました。
(看護の立場からの発表とシンポジウムは、別の仕事で外に出たので聞けませんでした。すみません)
次に聞いたのは、仙台で在宅緩和ケアをしている岡部健先生の「看取りと文化」の講演。
岡部先生のところは、年間300人ぐらいの人を看取っています。昨年岡部先生は大病をされ、この1年はほとんど実務ができなかったそうですが、システムが出来上がっているのでほぼ同じペースで看取っているそうです。素晴らしい。
仙台なので、震災と津波の影響は大きく、4カ月以上たった今でもまだ気持ちのまとまりがつかないと言われていました。病気と震災で「人間、いつ終わりが来るかわからない」という気持ちが強くなり、これまで広がってきた緩和医療が「お行儀が良くなりすぎているのではないか」という気もしているそうです。
看取りと文化を語る上では、医療と宗教の間の壁の問題は、避けて通れないだろうとも言われていました。一般の医療現場では、宗教は切り離されているけれども、あの世を語れない医療従事者に、あの世を信じている人の看取りはできるのかという大きな問題提起をされていました。
あと、枝葉の話で面白いなと思ったのは、イワシの話。群れとして泳いでいる中の一匹のイワシは、命について考えているか、という命題。私も昔から「群れの意思」というものを考えることがよくあって、たとえば空をぐるぐる飛んでいる鳩の群れは、右に回ったり左に回ったりするけれど、どの鳩が先頭ということはなくて、群れの中で北側にいる鳩はずっと北側、東にいる鳩はずっと東のまま、ぐるぐる回っている。右回りから左回りになる時も、誰が声をかけるでもなくて、自然に全部の鳩が回る方向を変えるように見える。これはリーダーとか先頭とかはいなくて、「群れの意思」としか考えようがないんじゃないかと、自治医大で働いている時に窓から外を見て考えていました。

閑話休題。 ここで昼休み。街に出て、安くておいしいランチ(鳥カツ丼セット、600円)を食べてきました。大通公園は夏休みに入った親子連れがすごくたくさん。各ビール会社ごとの大きなビアガーデンもあって、誘われそうになる足を会場に向け直して、午後のプログラムへ。
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午後は、札幌市教育文化会館大ホールに移動して、「超高齢化・多死の時代への準備」というパネルディスカッションに出ました。座長は北海道大学名誉教授の前沢政次先生です。
一人目のパネリストは、新潟県にある浦佐萌気園診療所の黒岩卓夫先生。黒岩先生の話の中でインパクトがあったのは、「医療の24時間体制と、介護の24時間体制は違う」という話。介護は24時間休めないが、看取りに限れば医療は「夜中に息を引き取った時には、夜が明けたら呼んで下さい」ということも、信頼関係があればできる、ということでした。どんな地域でも一般化するかどうかわかりませんが、医師数はあまり増えずに、医師または歯科医師しか死亡診断書が書けない状況が変わらず、その中で年間死亡者数が1.5倍に増えていくなら、このような方向への常識のシフトは必要になるでしょう。
二人目は、政策研究大学院大学教授の島崎謙治先生の「人口構造の変容と医療政策の課題」。多くの数字を出して話されたが、2006年の出生数109万人、死亡数108万人が、2039年には出生数60万人、死亡数166万人になる予測を示して「この頃には毎年100万人以上人口が減っていく『多死社会』になる」ことを強調されていました。

←これが島崎先生のまとめのスライド。緩和医療学会は、以前よりも格段に「緩和ケアが広まるために必要な、教育的なセッション」が増えているのに、相変わらず録音録画撮影禁止です。一昨年の総会で「教育的で有用なものは撮影OKにしてほしい」と発言してみましたが、相変わらず。でもこのパネルディスカッションの冒頭では「録音や収録はやめて下さい」とアナウンスしていたので、撮影はOKという意味かなと勝手に解釈して、写真撮りました。これを一瞬で記憶するのは無理だもの。できる人もいるらしいけど。また話がそれた。
三人目は、東京大学高齢社会総合研究機構教授の辻哲夫先生。日本の医療は病院医療で、病院に連れて行けば何とかなる体制を作ったため、生活の場に医療が構築されず、このままでは多死社会に対応できないと言われていました。現在辻先生は、千葉県柏市の豊四季台団地(人口密度が多く、団塊の世代が多く、都市近郊型の高齢化が急速に進むであろう地域)で進められているプロジェクトに関わっていて、それを紹介していました。そこでは地域の生活の中に医療介護福祉が受けられる仕組みが備わり、歳を取っても病気を抱えても安心して地域で「生活」できる街作りを進めているらしいです。関係ないけど、辻先生は何回も「言い訳みたいに聞こえるかもしれないけれど」と言っていました。役人時代は多くの医者を敵に回したという自覚が、あるということでしょうか。
四人目は、独立行政法人国立長寿医療研究センター総長の大島伸一先生による「医療は変わる」。これまでの「病院完結型医療」では需要に応えられず、「地域完結型医療」に根本的に変えていく必要がある。そのためには在宅医療が核になる、と述べておられました。

その後、パネラーの先生方が壇上に並んで、ディスカッション。さまざまな質問や厳しい意見、多くのコメントが出ました。
私も人前で緩和ケアの話をする時には、たいてい「団塊の世代が平均寿命に達する2030年には、毎年165万人が死亡するようになる」ことを言っています。
今後、人が死ぬことは当たり前にならなきゃいけないけれど、人が死ぬことを当たり前のことにしてはいけないとも思います。日常に死を取り戻すことは必要だけれど、だからといって死を軽く扱うようになってはいけない、という意味です。そのためには国民全体で変化を見据え、備えをしなければいけない。ここでは総論が並んだけれど、現場ではそれぞれの人に個別の対応をする必要が当然あり、壇上の人がみんなそこまで考えているようには思えないなーなんて不遜なことを考えたパネルディスカッションでした。
この後はポスター発表などを見て回って(イブニングセミナーは企業主導な感じがして「なぜこのテーマでこの先生?」と感じるのも多く、参加しませんでした)、18時半からの懇親会へ。
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懇親会の最初は、大会長の蘆野吉和先生(十和田市立中央病院院長)の挨拶。

続いて大阪大学の恒藤暁先生(本学会の理事長)の挨拶と続きます。

続いてルーマニア出身のヴァイオリニスト、チプリアン・マリネスクさんの演奏。私は最前列で聴きましたが、マイクが遠いこともあり、素晴らしい演奏だったのに会場がざわざわして多くの人は話に夢中だったのが勿体ない気がしました。アンコールに入る時にマリネスクさんが「静かに聞いていただいてありがとうございます」と皮肉を言ったのは、怒ってたんだろうなー。申し訳ない。
年1回しか会えない人、数年ぶりに会った人、今日初めて会った人たちと話をしていたら、食べるものがほとんど残っていないことを発見。まあしょうがないか。

ということで、同じ長野県の岡谷塩嶺病院の金子先生に誘ってもらって、おいしいお寿司屋さんに行っておいしいお酒とお料理をいただきました。写真は「うに二色丼」。
2日目の7月30日も学会は開かれていましたが、その日の夕方には帰ってきていないといけない用事ができたので、朝のうちに帰ってきました。というわけで、2日目の報告はなし。愛和病院院長の山田祐司先生が2時間半仕切るセッションとかもあったんですが、すみません。
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久々の長距離移動だったので、これも久々の、旅の記録を。

まずは前日の7月28日の旅程。これは仕事前に茅野から長野まで乗ったJRの115系。出勤だから旅ではないけど、たくさん公共交通機関に乗った1つ目。

午後の外来を終えて、急いで支度して長野新幹線に飛び乗りました。佐久平駅あたりから、ものすごく混んだ。

東京モノレールで羽田まで行くことが多かったけど、京浜急行もうんと時間短縮されたと宣伝していたので、京浜東北線で品川まで。これが結果的には大変な選択ミスでした。

品川駅で待っていても、なかなか羽田に行く電車が来ない。「エアポート急行」というのがやっと来たので乗ったら、京急蒲田まで途中3駅、その先は「各駅に停まります」って、おい。京急蒲田を出てから、羽田空港国内線ターミナル駅までの間に、5回も停車。

羽田空港国内線ターミナル駅で降りると、「15分前までに搭乗手続きをお済ませ下さい」のタイムリミットまで、あと5分ほど。かなり電気も消えた空港内を走るが、ANAの搭乗口Aが遠い遠い。しかも「日本死の臨床研究会」のチラシの仕上がりがギリギリだったので、持参する2,000枚のチラシとパソコンなど、荷物の合計が丁度20kg。歩くだけでも重〜い。
15分前には間に合って、自動チェックイン機に受け取り番号を入力し、機械から出てきた紙を持って機内持ち込み手荷物検査へ。ところが「これは搭乗券ではないので、搭乗券を発行してそれを持ってきて下さい」と言われてよく見ると

持っている紙には「ご利用の便はすでに手続きを締め切っております」の文字。21時丁度の便で、紙に記録された時間は20時45分。ありゃー、受け付け番号を入力してるうちに時間切れになったのか。
カウンターに行けというので、もう仕事片付けてる感じの人に予約の紙を見せたら、すぐに手続きをしてから搭乗口のグラウンドスタッフと連絡を取ってくれて、「私も一緒に行きます。乗れなかった場合には明日の便に振り替えになります」と、妙に静かに教えてくれたけど、こっちは焦りまくり。
持ち込み手荷物検査では、2,000枚のチラシが「正体不明」と見なされ、「中身を出して下さい」とここでも時間のロス。ようやく通過して、グラウンドスタッフの人(カウンターの人から、別の人に交代)と一緒に、20kgを抱えて走る走る。でも20kg、そうそう走れはしない。肩に掛けていたのを体の前に持ち直して、さらに走る。一緒に走ってくれているお姉さんが「お客様が最後の場合、乗れないこともございます。その場合には明日の朝の便に振り替えになります」と、だめ押しのご説明。
途中でグラウンドスタッフの人はまた交代して「お荷物、お持ちしましょうか?」と、親切なお申し出。でも失礼だけど、目の前の華奢なお姉さんが20kgの荷物を持って、私より速く走れるとは思えなかったので、お断りして肩に担ぎ直して、まだ走る。グラウンドスタッフさんが少し遅れたので「どこですかー」と聞いたら「一番奥です〜」と。まだ先だーっ。
搭乗口に着いた時には、もう倒れるかと思うぐらい息が切れていて、筋肉には乳酸もたまりまくり。でも飛行機はまだ先。スロープを降りたら、右下に行く道と、まっすぐ行く道があり、もう一回「どっちですかー」と聞いたら、お兄さんのグラウンドスタッフが「まっすぐでーす」と教えてくれたので、ようやく飛行機へ。
飛行機に乗り込んだら、まだ座っていない人もたくさんいて、ようやくホッとした。他の乗客の人に迷惑を掛けないですんだ。多分40代に入って、一番激しい運動だった。途中でちょっとでも諦めてたら、間に合わなかったかも。後から調べたら、600m以上走っていました。AEDのお世話にならなくて、よかった。
さて、飛行機が離陸して30分ぐらいたったら、「ただいま新千歳空港に問い合わせましたところ、現地の天候は霧で、着陸できるかどうかギリギリの条件です。2回着陸を試みるだけの燃料は積んでおりますが、着陸できない場合は羽田へ引き返すこともございます」という機長さんのアナウンス。頼むから新千歳に降りて。

新千歳空港周辺の上空では、天候が良くない間に着陸を待っていた飛行機がたまっていて、10分ちょっと遅れたけれど、無事新千歳空港に着陸できました。

最終電車に間に合わない時間でしたが、JR北海道の「快速エアポート」が待っていてくれました。でも何機分もの乗客が乗っていて、最後に到着した便だったので、大混雑。

札幌まで36分間、デッキに立って行きました。デッキの人口密度もすごくて、窓は曇りっぱなし。

一番前のデッキ、運転席のすぐ後ろに乗ったので、北海道の夜の闇を満喫しました(?)。

札幌駅に23時45分頃着いて、もう歩きたくなかったのでタクシー乗り場に行ったら、当然ながら長蛇の列。この時間でも札幌には珍しく25.1℃もあって、結構蒸し暑い。で、ホテルにようやく着いたのでした。今日乗った交通機関は、JR115系、長野新幹線、京浜東北線、京浜急行、AirDoの飛行機(ANAと共同運航便)、JR北海道の快速エアポート、タクシーの7つでした。疲れ切った。
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帰りの7月30日は、少し時間に余裕がありました。

まずはタクシーで、札幌駅まで。

快速エアポートも、今日はゆっくり座れます。

帰りはスカイマークエアラインの737-800型機。行きはAirDoの737-500型機だったけど、スカイマークは全部の機材を737-800型機に揃えて、整備や操縦士などの合理化を図っています。

主翼の端っこはぐーんと反り上がっていて、ハートが描いてあります。最新の1機だけは、赤いハートらしい。ボーイング737型は初飛行が1968年と古い飛行機ですが、最近の737は見かけはほとんど同じでも、中身は最新型の別の飛行機と言ってもいいぐらい、変わっているそうです。

羽田に着いたら、ボーディングブリッジではなくて、タラップで降りてバスに乗ります。背が低い飛行機だからしょうがないのかなと思ったけど、行きは737でもブリッジだったね。

飛行機からターミナルまで乗ったバス。これも一応公共交通機関?

帰りの羽田から品川までは「快特」とかいう種類で、行きの急行より圧倒的に早い。行きもこれぐらい早かったら良かったな。品川から新宿までは、山手線。

で、今日最後の公共交通の「スーパーあずさ15号」。今回は強行軍ということもあってかなり疲れた。特に行きの羽田空港で40代最大の運動をしたのが効いた。もうちょっと時間に余裕を持って行動計画を立てなきゃいけないと反省した、札幌行きでした。
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