2022/1/3
「切り結ぶ」という言葉がある。刀をまじえて切りあうことを原義とし、激しく争うことを指す言葉だけれど、そういう本来の意味を離れて、短歌は切り結ぶものだと思う。短歌とは対象を切り、それをふたたび結びつけるというある種相反する行為を一首のなかで共存させる必要のあるものだ。言うなれば、「切り、結ぶ」。いかに対象への斬新な視点や明晰な分析を示しても「切る」のみでは、逆に、どんなに対象に対する感極まった絶唱や耳なじみのよい総括を示しても「結ぶ」のみでは歌にはならない。その実践は容易ではなく、単なるマッチポンプに落ちてしまう危険をつねに孕むが、この困難さの克服に発揮されたものこそ短歌的知性と呼ぶにふさわしい。最初に書いたように、原則的に「切り、結ぶ」と「切り結ぶ」にはなんの関係もないが、それなのになぜかこの二つが重なる歌人がなかにはいて、平岡はまさにそんな歌人といえる。
負けたほうが死ぬじゃんけんでもあるまいし、開いたてのひらの上の蝶
なけなしのお金をフリージアに変えそれから食べ方を考える
平岡の歌の切断面にみえるのは、例えば、つまらない負けであり、ありふれた貧しさである。しかし、これらが単純な悲嘆や諦念や憤怒で結ばれることはない。かといって、その結び目に修辞的反転による栄光が立ちのぼるわけでもない。これらのいわば現実的な敗北は美学的な敗北で結び直される。一首目のじゃんけん、相手はチョキ、自分はパーで負けているのだろうけれど、自分が手を握りグーが出せなかったのはてのひらに一頭の蝶が止まっていたからだ。自分はあくまで蝶の美しさに負けたのであって相手に負けたわけではない。二首目のひもじさは、確かに一面では手持ちの少なさゆえかもしれないけれども、もやしなんかの安くて嵩のある食材を買うこともできたはずで、直接的にはフリージアの美しさに判断を狂わされたゆえのひもじさである。ここでいう美学的な敗北はあくまで美学的な敗北であって、敗者の美学ではないことに注意されたい。後者のような甘美さは一切なく、くだらない現実を洗い流す世界の残酷さそのものだ。「切り、結ぶ」ことで現れたこの敗北は、敗北といっても「切り結ん」だ結果ではなく「切り結ぶ」ための刀である。ゆえに、「負けたほうが死ぬじゃんけんでもあるまいし」とうそぶきはどこまでも高潔だし、狂ったまんま「食べ方を考える」主体に一片の後悔もない。
やや構図の見えやすい歌を引いたかもしれない。これを踏まえて、でもあんまりこれが前景化しないかもしれない感じで私の好きな歌をさらに何首か読みたい。
行き先の字が消えかけたバス停で神父の問いに はい、と答えた
「神父の問い」について、Yes/No形式であることは歌から確定できるが、その内容の予想は無限にできる。しかし、少なくとも「カレーは好きですか?」でも「今日の昼、カレーを食べましたか?」でも「カレーは飲み物ですか?」でもないことは、ほぼ自明といってよいだろう。どんな内容でも想像はできるが、このシチュエーションが選ばれた必然性を思えば、蓋然性の高いものは二つに絞られる。ひとつは「あなたは神を信じますか?」といった類の信仰についてのもの、もうひとつは「ここのバスは○○に行きますか?」といった類の行き先についてのものである。前段の比喩に乗っかれば、切断面にそれぞれの問いを浮かべた状態といえようか。ぱっと見、一方に絶対的強者の圧、他方に絶対的強者のゆらぎといった二面性を感じることができるが、実態はより複雑である。現実において町中で不躾に宗教的な問いを投げかけてくるのは、神父ではなく新興宗教の勧誘なのだから。というか逆で、こんな現実の場面を知っているから前者の問いの可能性を思わされているのだが。切断面では思いのほか強と弱が、聖と俗が、尊と卑が、現実がさざめきだっている。ゆえに「はい」という短くくもりのない、恭順にも捉えられかねない肯定の返事に世界がたじろぐ。
小平市津田町を着て約束のきみの新宿区に会いにいく
とても好きな歌だけど、この歌を読む前にこんな歌を引いておきたい。
家よりも大きなものは着られないのにどうやって逃げるというの
ときに美学的な敗北は語学的な敗北、 “わからない”として現れる。この歌は、「家よりも大きなものは着られない」という認識のもと「どうやって逃げるというの」という感慨が示されているというよりも、「どうやって逃げるというの」というやりきれない現実の切れっぱしを、「家よりも大きなものは着られない」という理由づけでなんとか結んだように見える。ただ、その理由は誰にでも伝わるものになっているわけではない。そのものが着られる/着られないの判断を家よりも大きい/小さいでする人はあまりいないだろうし、理路が通っているかもよくわからない。この歌からわかるのは、こうとしか結べなかったという痛切な何かだけである(この痛切な何かは“わからない”でしかわからないと言うこともできるけど)。
小平市津田町を着て約束のきみの新宿区に会いにいく
もちろん、違う歌なのだから「着る」のルールが変わっていてもいいのだが、同一のルールが働いているように思える。すなわち、着られる「小平市津田町」は「家」よりも小さい。もっと言えば、たんに条件を満たしているだけではなく、この「小平市津田町」にはあつらえたようなジャストフィット感がある。そんな「小平市津田町」を軽やかに着こなして「約束のきみの新宿区に会いにいく」。「約束したきみの新宿区に」は例えば「約束した新宿区で待つきみに」の圧縮版ではないだろう。「約束したきみの新宿区」は「約束したきみの新宿区」だ。じゃ、「約束したきみの新宿区」って何? 知らない。けど、「小平市津田町」は着るもので、「新宿区」は会うものだってことだけは確かなこととして受けとる。
わたしたちの避難訓練は動物園のなかで手ぶらで待ち合わせること
先に「切り、結ぶ」と「切り結ぶ」が重なると書いたが、それは不本意なことなのかもしれない。ほんとうは「切り結ぶ」なんてことをせずに逃げられるなら逃げてしまいたいのではないか、と。そんな来るべきときに備えた「避難訓練」ではあるが、やってることはちぐはぐである。非常時に飼育中の猛獣や大型動物の制御が効かなくなる可能性のある「動物園」は避難場所としてふさわしいとは言いがたく、防災グッズも持ち合わせず「手ぶら」である。一方、「避難訓練」「動物園」とくると、夕方のニュースなんかで取り上げられる猛獣役の職員がかわいい着ぐるみを着てクソ真面目に避難訓練を行っているおもしろ映像を想起してしまう。厄災のなかにある動物園は、キュートな猛獣たちにとっては一番安全な場所なのかもしれないね。
他に好きな歌を数首だけあげるとこんな感じ。
セーターはきみにふくらまされながらきみより早く老いてゆくのだ
心臓と心のあいだにいるはつかねずみがおもしろいほどすぐに死ぬ
冬。世界はだいたい毛糸だらけで、とつぜんきみの耳が出ている
春の底、桜吹雪の白熱をフランス人の耳で聞きたい
平岡直子『みじかい髪も長い髪も炎』(2021年、本阿弥書店)
3
2021/9/2
谷川の歌を読むと短歌で世界を肯定するということに思いが巡る。
きみの顔みながら鞄さぐるとき水中眼鏡ばかりがあたる
短歌で世界を肯定する。たとえばそれは、鞄のなかのなにかを手探りで探しているときにお目当てのものがなかなか見つからず、よりにもよって「水中眼鏡ばかりがあたる」ことを歌にすることだ言ってみる。これはなかなかにイライラさせられる、どこか不条理な状況だ。が、同時に、なにか愉快でもある。心の中の「なんでーっ」に笑いが混じるこの感じは、水中眼鏡が泳ぐときかビールかけのときにしか使えない、陸上の平場ではなんの役に立たない代物で、かつ、それでしかない独特な形状を有することからもたらされる。「きみの顔みながら」なのもよい。「きみの顔みながら」なのはきみに見せたり渡したりするものを探しているからなのだろうけど、一時もきみから視線を外したくないといったたぐいの情熱由来ではなく、きみをみていることもなにかを探すこともどちらも「ながら」な、一種の散漫さをみなもととしている。世界の肯定とは、声高に世界の素晴らしさを叫ぶことではない。このように、世界がわかりやすく素敵な場でもひどい場でもないこと、つまりは世界が世界であることからもたらされるまぬけな輝きをルーズに捉えることだ。もしかしたらこの歌のリアリティが気になるひともいるかもしれない。びしょびしょにぬれる水中眼鏡なんてものをふだん使いの鞄にはだかでいれるなんてことある? うん、あるよ。どんな状況やどんな理由でそんなことしたかは知らないけど、そういうことふつうにあるよ。この歌が事実ベースかどうかというのとは別のフェーズで、ある。世界はそういうふうにできていることを私たちは知っている。
ほかに私が好きな谷川の歌をあげる。
あの籠を買ったら洗濯籠にして洗濯物を一挙に運ぶ
円卓を日当たりのいい一角へ動かすためのこの腕捲り
お鍋できたよって よ。に力が入る よ、によって持ち上がる
全身にくる会いたいという気持ち山ですという山の迫力
山頂でヘリコプターから降りてくるオレンジ色の救助隊員
カラオケのハンガー壊れるハンガーはドラムにもギターにもなるから
友だちが来てテーブルをくっつける 新しいテーブルの大きさ
一首目、二首目のような谷川の運搬にかかわる歌が私は好きなのだけれど、きちんとそのものの重さを感じているところがいいなと思う。重さをきちんと感じているといっても、それを重く受け止めているわけではない。「洗濯物」や「円卓」に重さがあること、重さのあるものに対して自分の物理的な力が作用することを軽やかな歓びとしている。三首目になると重さに作用するのは言葉の魔術的な力だ。ただし、重力のキャンセリングは志向されず、ここでも「お鍋」はその重さを持ったまま持ち上げられる。ときに重力は、地上への、あるいは地上なるものへ呪縛としてとらえられ、重力からの解放は多くの芸術分野で主要目的のひとつとなっているわけだけれど、この歌集では肯定的に捉え続けられる。四首目、超重量の「山」と並置されることで、「会いたいという気持ち」は地上のものとなり、地上のものだからこその尊さをまとう。五首目、「救助隊員」のなめらかな鉛直下降運動は重力による恩寵だ。
短歌で世界を肯定するには、言葉による世界の反転を遠ざけることが前提条件となる。六首目、七首目に描かれる光景は、ありふれた光景といえばありふれた光景で、当然、この歌によって世界が裏返ることはない。そのうえで、肯定を急ぎないことが必要となる。六首目の「カラオケのハンガー」の用途外使用も、七首目の飲食店で「テーブルをくっつける」行為も、ありふれている光景を歌にすることで当たり前ではない世界の更新をおこなっている。短歌で世界を肯定するということに思いが巡ると初めに書いたが、より正確に言えば、短歌で世界を肯定することの不可能性を思わずにいられない、というこだ。こんなにあざやかな世界の目覚めに立ち会わせてもらってもである。だって、世界は別に誰からの肯定も必要としていないから。ただ、短歌を作ることはどのような不可能性を選択するかと同義だとも思っている。いくつもの不可能性の中からこの不可能性を生きることに決めたという選択に強いシンパシーを寄せたくなるのだ。
谷川由里子『サワーマッシュ』(2021年、左右社)
7
2012/8/31
ベルトに顔をつけたままエスカレーターをのぼってゆく女の子 またね/永井祐
最近の若い女性の笑い方って、なんかだらしないなと思っていた。「だらしない」といって、ピンと来ない人は女優の長澤まさみの笑い方を思い出してほしい。
擬音にすると「デヘヘへ」。こういう書き出しだと近頃の若いものは云々とつづきそうだけど、僕は、その笑い方、とてもいいな、かわいいなと思っている。「だらしないのにかわいい」でもなく「だらしないからかわいい」でもなく、「だらしなくてかわいい、かわいくてだらしない」。「だらしない」と「かわいい」が並列にあるかんじ。提出歌の女の子も「行儀が悪くて魅力的、魅力的で行儀が悪い」だ。のぼりのエスカレーターに軟体動物のようにしなだれて、手すりのベルトに顔をつけた女の子が乗っている。歌の発語者は、対面するくだりのエスカレーターに乗っているのだろう。その女の子が近づきやがて離れていく。はじめちょっとぎょっとしたけど、なんかいいもん見たなって思う。なんでいいもんなのか説明できないけど、なんかいいのはよく分かる。凛とした美少女みたいな分かりやすくいいわけじゃないからこそ、歌にしたのだろう。その子を肯定する言葉が「またね」なのもいい。このせまい日本で、再び同じ女の子とすれちがうこともあるかもしれないけど、そういう「またね」ではない。だって、そのときはこの女の子は「ベルトに顔をつけたままエスカレーターをのぼってゆく女の子」ではないからね。じゃあ、この「またね」は、ポーズなのかといったらそうじゃなくて、本気であることは間違いない。本気だからこそ、この「またね」は、「今ここ」が「今ここ」以外にないことを、より強く印象づけながら、「今ここ」を開放する。
1千万円あったらみんな友達にくばるその僕のぼろぼろのカーディガン
人のために命をかける準備するぼくはスイカにお金を入れて
このへんの歌の本気と同じだと思う。軽くて本気。本気はつねに重いものだと思ってる人にはなかなか通じなそうな本気。
ほかに、僕が感応できた、好きな歌はこんな歌。
はじめて1コ笑いを取った、アルバイトはじめてちょうど一月目の日
アイデアはただ一度だけ落ちてくる孤独な学級委員の胸に
君と特にしゃべらず歩くそのあたりの草をむしってわたしたくなる
返せないわたしにきっと図書館は向いてない 冬の机のうちわ
暮れも押しせまったある日横浜へ凝ったバーガー食べにいきたい
ほかに、ちょっとおもむきの違うこのへんの若書きであろう歌も好きでした。
狛犬の下に座ろう信長の気持ちがわかる女の人と
体育館の前で弁当広げてる もしもし、もしもし、こっちは夜だ
歌集の購入はこちら
http://www.bookpark.ne.jp/cm/utnh/detail.asp?select_id=61
3
2011/10/10
やさしい人、おもしろい人、しなやかな人、いろいろ素敵な人はいるけれど、僕が一番素敵だと思うのは、惜しみない人だ。雪舟えま歌集『たんぽるぽる』は惜しみない歌集だった。つまりは素敵な歌集だった。そんな感想をもつ僕の『たんぽるぽる』十首選。
駱駝みたいまつげに雪が乗っかっているよあなたを伝説にしたい
君がもう眼鏡いらなくなるようにいつか何かにおれはなります
雪かきを誰がするかで殴りあう春には消える雪のことで
寄り弁をやさしく直す箸 きみは何でもできるのにここにいる
パン袋しっかりにぎる 川面には応じきれないほどの輝き
なめらかにちんちんの位置なおした手あなたの過去のすべてがあなた
あなたがひとを好きになる理由はすてき森がみぞれの色に透けてく
なんでこうつららはおいしいのだろう食べかけ捨てて図書館に入る
よく笑う女になったけつあごのような苺をまたもみつけた
うれいなくたのしく生きよ娘たち熊銀行に鮭をあずけて
1首目と2首目。ある種の過剰さを伴う利他的な歌たち。過剰さと他人を思うことなんて、どう考えても食い合わせ悪いはずなのに、なんでこんな歌作って嘘にならないんだろう。どちらも奇跡的な歌だと思う。3首目も、言っている内容は一見逆っぽいけど、ベクトル(始点も方向も)としては同じ気がする。
4首目、5首目、6首目。寄り弁直したり、パン袋にぎったり、チンポジ直したりといった「ひとつ」とそれを照射する「すべて」についての歌たち。悲しみのうすい皮膜に覆われた歓びを感じる。それは、ありとあらゆる可能性のなかで、きみが、わたしが、あなたが、今ここにいることは間違いなのかもしれないけれど、ともかく、きみが、わたしが、あなたが、今ここにいるんだということ。
7首目と8首目。めちゃくちゃ美しい詩情。そして、同じ泉から湧き出てくるユーモアとしての9首目と10首目。
繰り返すけど、素敵な歌集でした。おしまい。
10
2008/2/13
「いち抜けた」の一本指をつかまえてささやく all you need is love/伊勢谷小枝子
この短歌を口ずさむといつも少し泣きそうになる。僕がこれまで読んだことのあるあらゆる短歌のなかで、この短歌がマイ・ベスト、最も好きな短歌だ。一本指をつきあげて「いち抜けた」と宣言する人のその一本指をつかまえてかけるべき言葉は、ふつう「にい抜けた」だろう。あるいは「「いち抜けた」なんて言わないで」という引き止め、か。いずれにせよ、けっして「all you need is love」ではない。ビートルズからの(わりと雑な)引用で、その愛もわたしがあげるわけでもなさそうなのに、いいかげんでちょっとなげやりなこのささやきは、なぜかとてもやさしい。
恋人はいてもいなくてもいいけれどあなたはここにいたほうがいい
ふられてたのにまたふられなおされた いるだけでいいからそこにいて
作者にとって、わたしの存在はあなたの存在を認めるためにあるようだ。それは「「いち抜けた」の一本指をつかまえ」ながらのいいかげんなささやきのようになされているけれど、小さくか細いその声はやさしくクリアにひびく。57577の定型は、最後の77の繰り返しが自己肯定性に結びつきやすいというのは昔から言われているのだけど(くわしくは穂村弘『短歌という爆弾』(小学館)などを参照)、こういうふうに他者の肯定のためにその仕組みを使えることに、(他者のために使おうという人はいるような気もするけれど、たいていそういう人の短歌はつまらないので、それなのにおもしろいということに)、僕は感動するのだ。
*
伊勢谷小枝子第一短歌集『平熱ボタン』(あざみ書房)は、上記3首(*これらは短歌集未収録作品です)のような短歌から離れ、「わたし」のことを書いている短歌が多いのだけれど、いわゆる「わたし」の短歌になってないヘンな感じが特徴だと思った。そのヘンさは、藤色の表紙に銀の箔押し風の題字という渋い、まるで歌集のような装丁を選択しながらリング綴じだったり、「序文」入りというこちらも歌集の体裁をとりながら、それが枡野浩一による規格外に素敵なものだったり、柴田有理による奇矯でチャーミングな挿画があしらわれていたり、という外枠のヘンさに対応する……かどうかはよくわからない。そんなヘンな歌というのはこんな感じ。
じだんだを踏んでいるのにみんなからダンスがうまいと思われている
ねこをかむねずみのつもりだったけど追いつめられることがなかった
ヒョウ柄のつもりが 「これはキリンよ」と指摘を受けて菜食主義に?
これらの短歌は、冒頭ひいた他者に向けられたクリアな歌群に較べると、採用されている構文は似ているのに、なんだかぐんにゃりとした印象だ。それは他者からの目線から「わたし」を規定していることに依る。僕が言うヘンさとは、イメージが奇抜だとかそういうことではなく、こういうことだ。自分による自己像がAでも、他人にBと言われればかんたんにBになってしまうといった。
この場所がいつか陸地になったとき化石の私が掘り出されたい
こういう歌にも表れているけれど、伊勢谷の歌のなかの「わたし」はめちゃくちゃ受け身なのだ。それなのに、いわゆる短歌で自在に展開される「わたし」よりも自由な感じがするのはなぜだろう。それは、作者が、思い通りにならない世界に生まれ、その世界を自分なりの方法で愛するということに自覚的だからではないだろうか。冒頭に引用したような他者へのまなざしをそのまま表した短歌と他者からの視線によって「わたし」を描き出そうとする本短歌集に収められた短歌はそれぞれがそれぞれの鏡像のように存在していると僕は思った。
鋼鉄のメダルをもらい堂々と猫背で生きる権利をもらう
本短歌集のなかで僕が一番好きな歌。鋼鉄のメダルを首にかけ、「猫背で生きていけばいいよ」(タメ口)と言ってあげたのが、僕でないのが残念なくらい好き。
( anotherpain ) vs ( Chocorua )
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