自販機へのぼる誰もがつま先をお釣りの穴にいったんいれて 伊舎堂仁
「誰もが」「自販機へのぼる」という非日常的な光景だけど、状況設定はいろいろ考えられる。若者の悪ふざけや何かからの避難とか。でも、描写というよりも幻視に近い感じがして、それなのに視ているのは「お釣りの穴にいったんいれて」というディテールであること、非日常なのに「あるある」という印象、そして「誰もが」というひとつの例外もないという強い限定に歌の核はある。ただ、現実的な状況に引き戻した場合、確かに自販機にのぼるならば釣り銭の返却口を足場にするしかないのだけど、足場としてはあまりにたよりなく、自販機のてっぺんに手をかけかなりジタバタしなくてはいけなそうだが、歌からはそのような印象は受けない。むしろ、釣り銭の返却口に足をかけたとたん、突然重力が月の重力くらいに変容し、ほとんど力をこめず次々とみんながのぼっているような印象を受ける。これは、倒置された語順のため、「つま先をお釣りの穴にいったんいれて」よりも「のぼる」が先にきて、ある種既成事実化していることと字余り・地足らずがなく定型ピッタリにおさまっていることによるだろう。短歌で描ける希望みたいのがあるとしたらこういうのを指すんじゃないかなと鑑賞者は思うし、とても感動するのだ。
(伊舎堂仁「銀色床(ぎんいろどこ)へ」/短歌結社「なんたる星」『なんたる星8月号』、http://p.booklog.jp/book/100187、2015)

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