奇蹟的なきみの料理だ。湯気のない。とてもきれいだ。すごくまずいよ。 柳谷あゆみ
やっぱりこれは「湯気のない。」がすごい「奇蹟的」な感じがする。冷菜でも時間がたったわけでもなく、端から湯気出てないんだろうな。そんなことあり得るのか。あ、だからこそ「奇蹟的」なんだって。んで、もうこの時点ですでに悪い意味で尋常じゃなく、どう考えてもまずそうなんだけど、ひっくり返ってもっと「奇蹟的」になるのかもという予感もしてて、そこで「とてもきれいだ。」で、ほらほらやっぱりって思ったら、「すごくまずいよ。」で唐突に終わる。え、結局そっち? でも、「湯気がなくてすごくまずい」が1奇蹟的だとしたら、「湯気がなくてとてもきれいですごくおいしい」が2奇蹟的で、「湯気がなくてとてもきれいですごくまずい」が3奇蹟的くらいで、とんでもないことが起きている感じがする。ここでは、なんでもないことを主観的に「奇蹟的」ととらえているのではなくて、ほんとうに「奇蹟的」なことが起きてるのだ。この世界、このくらいこの世ならざる「奇蹟的」なことが起きてもかまわない。だからって、別にまずい料理が食べたいわけではない。
(柳谷あゆみ『ダマスカスへ行く 前・後・途中』六花書林、2012年)

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