ふと僕が考えるのは風のまま外海に出たボールのことだ 早坂類
(外海:そとうみ)
おさないころの海遊びだろうか、風にさらわれて沖に運ばれてしまったビーチボール。なにかのきっかけで、あるいはきっかけも何もなく、「ふと」「考える」。思い出すではなく「考える」なので、「外海に出」てしまったあとの「ボール」に思いを馳せているのだろう。この歌の核は、誰にも認識されずに漂う「ボール」への心寄せだと思うが、「ボール」が特段大切だったものに見えないことや平板な散文調により感傷的な感じはしない。むしろ、その心寄せの行き場のなさが胸をうつ。「ボール」は、いや、空気も抜けてかつて「ボール」だった何かは、海上を漂流しているのか、どこかの浜に漂着しているのか、いくら考えても答えはない。独我論みたいに認識できたものが世界だという考え方もあるが(そして短歌の世界把握はこれとの相性がよいが)、存在の証明は不可能だけど認識できないものだって世界には確かにあるのだ。認識できないものについて考えるのは、これも証明はできないが、行き場はないけど不毛ではないのだ。というか、意味や意義を超えたところで生きることの一部なのだと思う。
(早坂類『風の吹く日にベランダにいる』河出書房新社、1993年/早坂類誌上歌集「風の吹く日にベランダにいる」、『短歌ヴァーサス』9号、2006年、風媒社)

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