戦争が(どの戦争が?)終わつたら紫陽花を見にゆくつもりです 萩原裕幸
初句の時点では、「戦争」は漠然と「戦争」でしかないが、二句目に挿入される「(どの戦争が?)」の異化効果により、漠然とした「戦争」などあり得ないと気づかされる。ただ、「(どの戦争が?)」は、問いかけ以上に、地球上に戦争が遍在していることをつきつける。「戦争が」「終わったら」は、「○○の戦争が終わらなくても××の戦争が終わったら」ではないだろう。「(どの戦争が?)」の答えは「あらゆる戦争が」という漠然としたものにならざるを得ない。しかし、この漠然ははじめの漠然とは全く違う。この歌では陶酔ではなく覚醒により遠くに連れて行かされる。遠すぎる「紫陽花を見にゆく」こと。紫陽花の季節のうちに、あらゆる戦争が終わることなどあるのだろうか。もしかしたら、戦争が終わることと紫陽花を見にゆくことの併置は不謹慎なのかもしれない。でもそれによって、主体が見にゆけない「紫陽花」に降っているだろう雨が「戦争」にも降っているように感じる。戦争を終わらせることはできないが戦争に雨を降らせることはできる。慈雨。この歌の「戦争」は濡れている。
(萩原裕幸『あるまじろん』沖積舎、1992年/『デジタル・ビスケット』沖積舎、2001年)

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