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2014/5/27
「連作6首」
連作
支度を
火を放つ 幼いころに憧れた樹上の家まで伸びる梯子に
ひと冬はゆうにこえられるであろう愛をかかえて戸口に立つ
花も犬も草も水も鳥も遠くスポーツ選手の死は悲しい
雲雀揚げきる冬空の勘違いするなよ これは勇気の話だ
くちびるに思い上がりを 下りてゆくエレベーターからみる雪が好き
ケージの彼女は鳶色のワンピースに春を従えバットを逆手で構えた
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投稿者: 宇都宮敦
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2014/5/25
「一首鑑賞(11)」
一首鑑賞
初夏のわれは野に立つ杭となり君の帽子の飛びくるを受く 渡辺松男
初夏、何もない草はらに立つ一本の「杭」になる、「君の帽子」が飛んでくるのを受け止めるために。意味はわりとまんまな歌だと思う。しかし、世界チャンピオンのフリスビー犬とかならまだしも、どうして飛んでくる帽子を受け止めるにはどうにも頼りない「杭」になるなんていうのだろう。歌の中では何にでもなれるというのに。本来、杭は何かを掲げるためだったり、留めるために打ち込まれるものだが、ここでの「杭」はそのような社会的な機能はない。いわゆる役立たずだ。たぶん、この歌の「われ」も社会的に有能とされるような人ではなくて、そこで嘘をついてまで頼りがいのある何かに仮託するのがいやだったんだろうなと思う。もし僕が「君」で、こんなことを言われたら、帽子が飛ぶのも気にせずに何かをしたいと思うよ。それは、「われ」が帽子を飛ばしても必ず受け止めてくれるという信頼からではなくて、なけなしの好意に応えるために。
(渡辺松男『寒気氾濫』1997年、本阿弥書店)
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投稿者: 宇都宮敦
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2014/5/11
「一首鑑賞(10)」
一首鑑賞
フェンスへととびつく外野手空に出すその手をぼくにかしておくれよ 正岡豊
ホームランになりそうな打球にフェンス際で外野手がとびつく。そんなプレーの最中、ジャンプ一番、めいっぱい伸ばした「その手」を「かしておくれよ」と言う。「ぼく」には何か掴みたいもの、掴まなくてはいけないものがあってそう言っているのだろうが、捕球できたかは不明で、「その手」を借りられたとしても、何かを掴めるかどうかはわからない。「ぼく」が希求するのは結果ではなく、希求そのものなのだろう。そもそも、結果がわからなくなったのは「その手をぼくにかしておくれよ」という下句のせいだ。「外野手」がいるのは手にする結果がホームランかアウトしかない非情な世界で、「空に出す」という言葉は、打球がグラブの上を通過しそうなニュアンスを醸し出している。希求するとは、勝ち負けしかない世界で、負けゆくこと。負けゆくこととは、決して負けないこと。「その手をぼくにかしておくれよ」が、一義的に負けゆくためのフレーズに見えてくる。
(正岡豊『四月の魚』1990年、まろうど社/正岡豊誌上歌集[増補版]「四月の魚」、『短歌ヴァーサス』6号、2004年、風媒社)
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投稿者: 宇都宮敦
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2014/5/6
「一首鑑賞(9)」
一首鑑賞
黒猫を捧げるように持っている君のひたすら音痴な校歌 山崎聡子
「音痴な校歌」とあるが、校歌だけでなく、すべてが不調和な感じがいいなと思う。「黒猫を捧げるように持」つというのは、たぶん、猫の脇の下(?)に手をいれ、高い高いの体勢に、だけど猫の向きは向かい合わせではなく「君」と同方向を向いているんじゃないかと想像する。「黒猫を捧げる君」だったら勝手に捧げた気になるなと嫌いな歌になっていたかもしれない。「捧げるように持つ」ことはできても、猫を捧げることはできない。なんというか、捧げるという思惑につきあってあげられるほど、猫は頭がよくない。「黒猫」や「校歌」が主体のためのものと読むこともできそうだが、もっと別の何かが対象で(あるいは、別に何かのためなんかではなく)、逆に、こんな、シュールな状況に居合わせてつきあっている主体のほうに「君」への好意を感じた。もちろん、そんな思いは、猫ばりに頭の悪い「君」はわかっていない。誰の思惑もおかまいなしに、きょとんとした顔をして、伸びきっているであろう猫がたまらなくかわいい。
(山崎聡子『手のひらの花火』2013年、短歌研究社)
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投稿者: 宇都宮敦
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